閑 人 戯 言        談話室     案 内 

kanjon


 いまの世の中は「愚痴」の似合う世の中のように思います。あれっ? 「そりゃあ、お前の心が愚痴っぽくなっているからじゃあねえか。」という声が聞こえてきました。そうかも知れません。

 愚痴  ぐち  グチ  guchi  愚痴  ぐち  グチ  guchi  愚痴  ぐち  グチ  guchi 


                         「思い出への道」

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 もう10年も前に「昨日の向こう」という詩集を作った。その詩集の表紙を年賀状の絵柄にした。ちょっとした知り合いの著名な童話作家にその賀状で年賀のご挨拶をした。お返事をいただいた。「素敵な題名の詩集ですね」と書いてあった。
 近所の何気ない田舎道をウォーキングがてら散歩をしていて、まっすぐな一本道の向こうに林があって、その林の向こう側の小さな出口を見た。あそこを出るとなんだか懐かしい思い出の世界があるような気がして詩集の題名の「昨日の向こう」を思い出した。そして、同時に童話作家の方からの返事の賀状を思い出していた。ぼくは今年もう八十四才になる。毎日はずっと家の中。家族以外の誰かとの会話は病院の医師か看護師だけになってしまった。趣味の詩を詠む材料がない。ぼんやりこの写真を見ながら考えた。「いまさら何を言っているのだシュンGさん、お前はもう10年も前から昨日の向こうへ出掛けては詩を書いていたじゃないか。」。そんな声が天から降ってきた。今年ははっきりと思い出に続く道への旅をして、詩の種を探して拾ってきてそれで詩を書くことを意識しよう。
 これが今年のぼくの念頭の決意になりました。

         思い出への道


思い出への入り口は
思いがけないところにあるのです
場所は昨日のずっと向こうですけれども
入り口を入ると瞬時に翔んで行くことができます

到着すると静かに霧が晴れるように
懐かしさと共にスクリーンに浮かぶように
思い出が現れます

するとぼくはまるで思い出の発掘調査のように
求めていた思い出の断片を探し始めます
不思議に
浜辺の干潟で貝掘りをしているように
つぎつぎに断片が見つかります
それはぼくの心の中で並べられて行きます
すると 不思議にひとつの物語が組み上がります
その物語をイメージにして
ぼく自身の道具箱に入っているたくさんの言葉のピースを
あれこれと並べ替えて一編の「詩作品」にします
それは思い出遺跡の復元のような感じです

そんな作業をぼくは思い出考古学と言っています
でも、ある思い出の復元は
昔の事実ではないように思われます
そう こうあって欲しいという
ぼくの今の心のままに恣意的に復元されてしまうからです

 

 

でも、そうしてできた詩作品は
いまのぼくを表現した一編の詩作品には違いありません
あの「昨日の向こう」という詩集は
そうして復元されたぼくの思い出の博物館なのです

ところで
その思い出への入り口は
詩の一編ずつですが
唐突に「今」、何かのきっかけで現れる入り口です
ふと散歩の途中で教会の十字架を見ると
ぼくのこころには
高校一年生の時の友だちの女の子に会いに行ける
その思い出の入り口を発見します

新潟へ旅をした時に砂浜から佐渡島の島影をみたとき
ぼくは故郷・隠岐島への思い出の扉を入っていました

フランソワーズ・サガンの古い小冊子を古本屋で見かけて
ぼくは教え子の副級長の
可愛い女の子への思い出の道に入っていました

今年はどんな道への入り口を行けるのでしょうか
普段はすっかり忘れている
そんな思い出への道を歩きたいと
もう今からワクワクしています

 
 こんな記事はこのページには似合わないとは思ったのですが、傘寿を越えて詩を書くときはもう日々の感動が少なくなりましたのでどうしても思い出すことを題材にしたくなります。そうして、出来上がった作品は古い匂いと叙情の音色に包まれます。そこに人の微妙な心の漣を感じた時に、ぼくはそれをこそ詩にしたいと思い思いして今まで詩を書いてきました。

 ところが、そのようにして書いた詩をかなり多くの人が「こんなのは女々しい少女趣味の抒情詩ではないか!」「ロリコン・マザコンの女々しい演歌にすぎないから、現代詩の仲間ではない。三流の素朴派の詩とは言えない作文だ。その証拠に分かり易すぎるだろう?」と言われ続けています。それでも自分を壊すつもりはないので描き続けていますと、もう二十年以上も時が過ぎるのにまだぼくを「ロリコン詩人」だとニヤリと跳ね飛ばすのです。

 わけのわからない現代詩なるものを描き続けて、日本の文芸世界から「詩」を暗い倉庫に入れてしまった自称詩人たちの所業に、ぼくは大いに愚痴を言いたいのです。なんども言い続けてきましたが、我が国の「うた」の源を探ってみてください。歌は理屈ではなく心をつなぐ優しくて温かい声だったことを知ってほしいと思います。みんなで歌いみんなで楽しめる文芸こそ真の文芸ではないかと。

 で、今年もぼくはぼくの信念を貫くぞという決意を表したくて、このページにその決意を記したわけです。

 自らを歌で紹介仕合い、歌で知り合い、歌で互いを認め合い、たくさんのお話や所業を理解しあって心を通わせて、ともに日々を過ごして夫婦になって行った古代の結婚の姿の「歌垣」を知っていますか? 詩は本来そんな歌から生まれたものだと思うのです。

 また、その「歌垣」が行われていた時代の、貴族たちの間にも和歌はさかんに作られていてあの著名な「万葉集」など編纂されました。その和歌集の中の大御所の柿本人麻呂さんの「歌(和歌)」も、今の日本の「詩歌」のおおきなルーツの一つです。
「 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに古へおもほゆ・・・柿本人麻呂」 山部赤人さんと三日三晩 越前永平寺で歌を語り合った人麻呂が飛鳥の都へ帰る道すがら寄った琵琶湖畔で歌った歌です。「歌垣」とは関係ありませんが、人麻呂さんの歌のなんとも言えない情緒を感じます。昔、天智天皇が開いた大津の都で若い頃に下っ端走り使いでの仕事をしていた人麻呂さんの初恋の人(多分天智天皇の娘でのちの持統天皇がまだ幼い時ではないか?)を思い忍んだ歌のようですが、それとなく自分の大切な初恋の思い出をこんな風に歌った人麻呂の心を思う時、それはもう詩人でなくても心に伝わるものがあるでしょう? 詩はそんなルーツを持って現代にもあっていいのではないでしょうか。否、むしろそうあるべきだとぼくは思うのです。

 太平洋戦争後に生まれた跳ねっ返りの詩人たちの、いまではもう古くなって、カビの生えた「現代詩」なるものを金科玉条のように崇拝している年寄り詩人たちの目を冷まさないと、日本の「詩」は腐ってしまいかねないと思うのですが、いかがでしょうか。
 

 

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