閑 人 戯 言        談話室     案 内 

kanjon


 いまの世の中は「愚痴」の似合う世の中のように思います。あれっ? 「そりゃあ、お前の心が愚痴っぽくなっているからじゃあねえか。」という声が聞こえてきました。そうかも知れません。

 愚痴  ぐち  グチ  guchi  愚痴  ぐち  グチ  guchi  愚痴  ぐち  グチ  guchi 


                       ぼくの詩作品のコンセプト                 

 

 ぼくが十才の時、ぼくの故郷、島根県隠岐島でのことです。
 母のすぐ下の弟、ぼくのおじさんはぼくを可愛がってくれました。おじさんの子で長男の従兄弟とぼくがとても仲良しだったからかも知れません。あるとき叔父さんは仕事の「カナギ」(艀に乗って箱鏡で海底をみながら、サザエや鮑やタコ、それに食べられる海藻を収穫して生業を立てる仕事)で、ぼくとまだ四才の従兄弟を連れて島の外海へ出ました。
 立木という外海の浜の岬を過ぎて、もう一つの岬の漁場へ行った時です。小さな岩の突端に仔山羊が一頭波を恐れるように立っていました。近くには誰もいません。なんでこんなところに仔山羊がいるのかが不思議でした。叔父さんはその岩に上がってから崖を登って飼い主らしい人を探しましたが、見つかりませんでした。かわいそうだと言うので連れて帰ることにしました。ぼくと従兄弟は仔山羊の珍しさと可愛らしさに大喜びでした。艀に乗せてずっと撫でたりしながら可愛がって船着場まで戻りました。家に連れて帰ると早速家の前の広い草むらに杭を打って縄で首輪を作って繋いで起きました。仔山羊は草を食べながら大人しく遊んでいるようでした。ぼくと従兄弟はずっと仔山羊の傍にいて可愛がっていました。夜は家の前の薪を置く小屋に藁を敷いてあげました。二人で可愛がっているのを叔父さんはニコニコ見ていました。
 数日経って村の人(中学生や大人たち)が五、六人ほどきて仔山羊を見ながら、おじさんには聞こえないようにヒソヒソと話しては笑っていました。その言葉の中に「山羊の肉は美味いらしいな。」とか、「毛皮も使えるらしいじゃないか。」「町へ連れて行けば売れるんじゃないか。」などという話をぼくは覚えています。その言葉に村の人たちが憎らしくなったことを覚えています。叔父さんは決してそんなことはしないで、ぼくと従兄弟の二人のために可愛がっていつまでも大事にしてくれました。この話は事実ではっきりと覚えています。


 今度はぼくが中学校の教師になって二十年を過ぎての話です。ぼくはある中学校の教頭先生になっていました。若い男性の先生が結婚して一年を過ぎた頃でした。奥さんに赤ちゃんができたと嬉しそうに話していました。ところがその赤ちゃんが生まれるまで、もう一ヶ月もない頃にお腹の中で息を引き取ったらしいということでした。手術で亡くなった女の子の赤ちゃんをこの世に出してあげました。その子のお弔いを夫婦だけで行いたいので休暇がほしいとぼくに言ってきました。校長先生に相談して、そのお弔いにぼくが参加させて欲しいと後輩の先生と校長先生に願い出ました。後輩の若い先生は喜んでくれました。校長先生は「よろしくお願いするよ。」とぼくに言いました。
 葬儀場で若い先生夫婦とぼくの三人だけのささやかなお弔いをしました。死産なのに第一子だという悲しさはぼくの心を濡らしました。お二人でお名前をつけて、桐の木の高級お菓子の箱を棺にして女の子が眠っていました。三人で泣きながら荼毘に付しました。そのときの赤ちゃんの亡骸の神々しいまでの姿に、ぼくはとても感動していました。三人で冥福を祈りながら泣いて涙を拭いて静かにお弔いを終わらせてからの記憶は霧の中になりました。これも事実のことでした。


 この経験をぼくはときどき思い出します。そして、思い出すたびに思います。「生きるってことは、もしかしたら心が汚れていくことなんだろうか?でも、そこから学んだ生き方への憧れが、清らかに生きることへの憧憬を産むのではなかろうか?」 生意気にそんなことを思いながらこんな詩を書いてみました。仲間内ではあまり見向きもされなかった作品でしたが、ぼく自身には大事な作品になりました。
 


         山 羊

 

岬の突端の岩の上で
ぼくたちは山羊を拾った
荒縄で首を縛り、小舟に乗せて村へ帰り
裏庭の草むらに杭を打って繋いでおいた

ぼくたちはことあるごとに、
この思いがけない幸運を
とっておきの秘密を打ち明けるように
もったいぶってこっそりと、
けれど誇らしげに語った

(噂は蛇のように村を這い回った。)

愛想いい笑顔で村人は集まった
遠慮がちに、けれど好奇の目を光らせて
無心に草を食べている山羊を取り巻いた
最初の一つは子どもたちの小石だった
ちらっと山羊が顔を上げた
ぴたりと止まって
子どもたちも村人も動かない
山羊はまた首を下ろして草を食べ初めた
石はしだいに大きくなり数を増した
傷ついて白い毛に血を滲ませながら山羊は
村人を見た
瞬間、何もしない風を装って村人は風景に
張りついた
しかたなさそうに山羊はまた草を食べた
それしか出来ないだろう、繋がれた山羊だ
ごそり・・・
その隙に村人の足が一歩前へ出て山羊に近づいた
敏感に山羊は首を上げて村人たちを見た
愛想笑いの村人たちの目は銃口だ
無数の銃口がこっちを向いている

(だるまさんがころんだ・・・。)

村人たちの心がそよいでいる
山羊にそれがはっきりと聞こえる
屠殺
毛皮
村一番の料理人
祭礼の酒宴・・・
恐怖の静寂がみなぎって草原を渡る
そよ風に吹かれるように山羊の毛が震える
小波のように恐怖が山羊の目に波立つ
山羊が思わず目ばたきをしたその一瞬に
ごそり・・・
また村人は前進した
山羊はもう目をつぶらない、つぶれない
そして、村人は動かない、動けない

(子どもの遊び歌は消えていた。)

 

 

 

静かに時間が凍りついていた
かすかにひたひたと水音がする
いつのまにか山羊の足は水に浸され
村人たちの足も水の中に浸されていた
しかし、山羊も村人もそれを知らない
目を外らすことが出来ないのだ
水は流れ始めていた
流れは噂のように広がって辺りの草を
その底に水草のようにそよがせているが
水面は波ひとつなかった

母の胎内で息を引き取った女の子が
母を出て
お菓子箱の棺の小舟で旅立った
見たこともない小菊の花に飾られて
神々しい明るさの中を
生を純粋の生にして
死を純粋の死にして
愛に汚されることもなく
希望に幻惑されることもなく
人生を渡ることより清らかに
静かに流れていった

(それはぼくらの原点でなければならない。)

もう辺り一面は海であった
波に母の愛が漂っている
波に父の愛が漂っている
山羊は岬の突端の岩の上で母を呼ぶように鳴いた
まなざしは癒されることのない孤独に満ち
満ち潮や引き潮に首の荒縄を泳がせている
村人たちは黒く沈み込み岩礁になって
波に洗われるが、体の牡蛎はへばり付いたままだ
潮風が泣いている

ぼくたちはまだだらしなく舟に乗っているが
もう岬の突端の岩の上の山羊は拾わない
思いがけない幸運を語らない
遠い空から下りている一条の光が
水平線を金色に引いている
その彼方が気になるのだ
その中へ溶けていった
お菓子箱の棺の女の子が気になるのだ

 

 あるとき、なぜか二つの記憶を蘇らせて、「生きるって?」どういうことかをもう一度考えたことがありました。
 仔山羊と村人たちの表面と内面が異なる残酷な人間らしい緊張感溢れる醜さ。そして、互いに一時たりとも油断できない人間関係のようなものの結末の哀れな姿。時間の流れの中にそのままへばりついて動けない「生」を、あのときの村人たちのヒソヒソ話にヒントを得て書いてみました。人はみんな結局はこんな醜い自分を緊張感から解き放たれないままに「生きること」を終えるのだろうか。母の胎内でだけの清らかな「生」を汚さないままに亡くなったあの女の子の「神々しいまでの生こそ、それはぼくたちの原点なのではないか」と、ぼくは強く思ったのです。でもそれを読者のみなさんに自分の主張として「声高に叫ぶ」ことはしませんでした。勝手に思いを露出してしまうと周囲の目から、自分も目を離せなくなってしまうような気がしたのです。

 ぼくの詩作品は、そっと自分自身に言い聞かせる「心模様」の姿で止まっているだけなのだという作品です。明快な哲学にして声高に主張しないで、心の小波ぐらいの心理学で終わらせると、人は「で?いったいお前は何を言いたいんだ?」「何にもない、主張も批判もないじゃないか。」とか、「なんか、優しいだけで、中身のない作品だよな。」「少女趣味の抒情詩の範囲を出ていない。」というのです。確かにその批評は当たっていますが、ぼくに言わせれば「偉そうで浮薄な主義主張こそ、安っぽいじゃないか。」と思うのです。

 みなさんいかがでしょうか?

 

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