こんな記事はこのページには似合わないとは思ったのですが、傘寿を越えて詩を書くときはもう日々の感動が少なくなりましたのでどうしても思い出すことを題材にしたくなります。そうして、出来上がった作品は古い匂いと叙情の音色に包まれます。そこに人の微妙な心の漣を感じた時に、ぼくはそれをこそ詩にしたいと思い思いして今まで詩を書いてきました。
ところが、そのようにして書いた詩をかなり多くの人が「こんなのは女々しい少女趣味の抒情詩ではないか!」「ロリコン・マザコンの女々しい演歌にすぎないから、現代詩の仲間ではない。三流の素朴派の詩とは言えない作文だ。その証拠に分かり易すぎるだろう?」と言われ続けています。それでも自分を壊すつもりはないので描き続けていますと、もう二十年以上も時が過ぎるのにまだぼくを「ロリコン詩人」だとニヤリと跳ね飛ばすのです。
わけのわからない現代詩なるものを描き続けて、日本の文芸世界から「詩」を暗い倉庫に入れてしまった自称詩人たちの所業に、ぼくは大いに愚痴を言いたいのです。なんども言い続けてきましたが、我が国の「うた」の源を探ってみてください。歌は理屈ではなく心をつなぐ優しくて温かい声だったことを知ってほしいと思います。みんなで歌いみんなで楽しめる文芸こそ真の文芸ではないかと。
で、今年もぼくはぼくの信念を貫くぞという決意を表したくて、このページにその決意を記したわけです。
自らを歌で紹介仕合い、歌で知り合い、歌で互いを認め合い、たくさんのお話や所業を理解しあって心を通わせて、ともに日々を過ごして夫婦になって行った古代の結婚の姿の「歌垣」を知っていますか? 詩は本来そんな歌から生まれたものだと思うのです。
また、その「歌垣」が行われていた時代の、貴族たちの間にも和歌はさかんに作られていてあの著名な「万葉集」など編纂されました。その和歌集の中の大御所の柿本人麻呂さんの「歌(和歌)」も、今の日本の「詩歌」のおおきなルーツの一つです。
「
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに古へおもほゆ・・・柿本人麻呂」 山部赤人さんと三日三晩 越前永平寺で歌を語り合った人麻呂が飛鳥の都へ帰る道すがら寄った琵琶湖畔で歌った歌です。「歌垣」とは関係ありませんが、人麻呂さんの歌のなんとも言えない情緒を感じます。昔、天智天皇が開いた大津の都で若い頃に下っ端走り使いでの仕事をしていた人麻呂さんの初恋の人(多分天智天皇の娘でのちの持統天皇がまだ幼い時ではないか?)を思い忍んだ歌のようですが、それとなく自分の大切な初恋の思い出をこんな風に歌った人麻呂の心を思う時、それはもう詩人でなくても心に伝わるものがあるでしょう? 詩はそんなルーツを持って現代にもあっていいのではないでしょうか。否、むしろそうあるべきだとぼくは思うのです。
太平洋戦争後に生まれた跳ねっ返りの詩人たちの、いまではもう古くなって、カビの生えた「現代詩」なるものを金科玉条のように崇拝している年寄り詩人たちの目を冷まさないと、日本の「詩」は腐ってしまいかねないと思うのですが、いかがでしょうか。
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