自家製本・詩集

     書 斎     案 内

  於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」

(訳=ここにおいて天武天皇が仰せられましたことは「私が聞いていることは、諸家で持ち伝えている帝紀と本辞とが、すでに真実と違い多くの偽りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかったら、いく年も経たないうちに、その本旨がなくなるだろう。これは国家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辞をしらべて後世に伝えようと思う。)・・・ 『古事記』・訳=ネット「えあ草紙」より。

 
原文の終わりの「・・・欲流後葉」をぼくは『木の葉の舟に乗せて時間の流れに浮かべて後の世に伝えたい。』と読みました。まことに勝手な読みですが、同じ時代にできたであろう「万葉集」の「葉」と同じような解釈ができるではないかと思いました。

 その「葉っぱの舟が令和の時代に流れ着いた。」のです!!そのおかげで現代にも「古事記」が読めるのです。 そんな想像からこの本に「葉舟記」という名前をつけました。

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 葉舟記

 
  昔、天武天皇さんが稗田阿礼(ひえだのあれ)さんに、「真実の歴史のお話を集めてください。それを木の葉の舟に乗せて時間の流れに浮かべて後の世に伝えたいから。」と頼みました。
 稗田阿礼さんは、稗田という部落に生まれた阿礼という女性で宮廷で「語り部」という部屋でお仕事をされていた方のようです。今で言えば政府の「文書館」の研究主任ぐらいの役目の方でしょうか。天皇さんから勅命を受けたのは二十八歳といいますから、働き盛りの才能のある女性だったのだろうと思います。
 それから何年かが過ぎました。天武天皇さんと持統天皇さんの息子の草壁皇子さんのお嫁さんが元明天皇さんになられた時でした。元明天皇さんは、義父の天武天皇の意を継いで稗田阿礼さんに仕事を進めさせました。つまり稗田阿礼さんは太安万侶(おおのやすまろ)さんに、集めておいた歴史や伝説をお話し、それを太安万侶さんが書き残しました。それがあの有名な「古事記」という書物です。
 元明天皇さんは飛鳥の藤原京から(現在の橿原市)から平城京(現在の奈良市)へ都を遷した天皇さんです。この時から飛鳥時代が奈良時代という呼び名に変わるのです。

 ひとつ興味深いお話をしましょう。稗田阿礼さんが太安万侶さんに語った話の中の「天照大御神・天岩戸」は、その当時に都に伝わっていた伝説です。(稗田阿礼さんの創作ではありません。)「伝説」はかなり昔にあった事実を人々が語り継いできたもので、語る人によって脚色はあるでしょうがお話の根拠になる事実があったことは容易に考えられます。
 その事実があの中国の三国志にある「魏志倭人伝」の中の「邪馬台国」「女王卑弥呼」ではないかという研究があります。根拠は二つの話(天照大御神と卑弥呼)には、多くの共通点があるということです。ただの興味だけではなく、いろいろに調べた結果でその研究で言われていることは大いにぼくも頷けるのです。卑弥呼さんと阿礼さんの時代は四百年以上の間があります。卑弥呼さんのお話が伝説になって阿礼さんに伝わることは不思議ではありません。

 ぼくも本作りなどを始めた所為か、ぼくの昔から掘り出した思い出の遺跡の欠片を繋いで、復元して自分の歴史・伝説を作ってみようと思いました。天武天皇さんと稗田阿礼さんと太安万侶さんの三役を一人でこなして野村俊の「古事記」を作ろうなんて笑っちゃいますよね。でも多少の脚色はありますが、お話の八割以上どれもみんな本当にあったことなんですよ。ぼくも木の葉の舟で孫たち、そしてぼくの子孫たちへ・・・。

 

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