自家製本・詩集

   書 斎   案 内

 人は自分だけの思い出を持っています。

 どう思い出して、どんなストーリーにして持っているかは人によって違います。それは思い出す人の個性と関係があると思います。寂しがり屋のぼくは、寂しい思い出のストーリーを持っていますが、優しさが欲しいと思っているぼくでもありますから、寂しさに優しい香りや名残りを添えた思い出復元のストーリーになっています。
 それはその後の人生に大きな影響を与えるといいます。難しいことはわかりませんが、『思い出が次の人生への応援になっていたり指針になっているとき、その思い出は幸せへの道標になる。』というようなことをデンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールさんが言っているのだそうです。

 思いがけない思い出を発見した時は感動ももちろんありますが、心の傷が出土するような苦い味わいもあります。だが不思議にそれらはすべて懐かしさ故に静かに胸に収めたり、憎む心を許したりするものです。そして、思い出の遺跡の数々に、その懐かしさ故に不覚にも涙をこぼしてしまう時、思い出たちはみんなぼくの中では宝物になるのです。

 ここ「こもれびレストラン」で、まるで身の上話のように語り続けた思い出話の中から、なんとなく気に入ったものを選んで並べてみました。
~詩(うた)で奏でる自分史~と格好つけて、恥ずかし気もなく作った一冊を読んでいただけたら嬉しく思います。
             

zsg

 
 幼い頃から今までを振り返る時に、ぼくは自らのアイデンティティを思います。つまり、今の自分がどのようにして作られ、出来上がってきたかをしみじみと考えるのです。それは単に感傷的に自分史を心に浮かび上がらせるためではないのです。たとえば、ぼくは自分の行動や考えや心の落とし所を他の人に尋ねたり、教えてもらうことはありませんでした。そんな自分を頑固者だと思ったり、友人にもかなり大勢の人にそう言われたりしました。「どうしてこんな自分になってしまったんだろう。」と思った時に、幼い頃からそう作られてきた自分の経歴に頷けるところがいっぱいあるのです。

 ぼくは「初恋が終わった次の朝」というフレーズが好きです。それは自分の初恋に浸っていたいような女々しい自分の心境を思い出したいということではありません。あの頃を思い出しながら不思議に思っていたことの謎が、もう傘寿になろうという今になって解けるのです。たぶんあの時の女性の友が自分の初恋の相手だったのだろうという風に自分の初恋をぼくは思うのです。いったい何故なのだろうという不思議を整理してみて、ようやくわかってきたような気がしています。可愛いなあと憧れていた同級生の女の子がいましたが、ほとんど話をしたことがありませんでした。すっごく美人だなと思い周囲の連中からも一目置かれていた同級生もおりました。しかし、それらの同級生にぼくは心惹かれていたのではないことがわかります。いつでも、どこでも自由に話せてなんでも相談できる同級生の女の子がいました。もちろん、恋人のような思いの憧れは微塵もありませんでした。けれど、彼女と一緒にいることは大好きでした。その彼女がいなくなった時に感じた世界が終わったような寂しさを今でも忘れることはできません。見て・感じて・惚れて・ひたすらに憧れて、慕わしく思うようになってしまう「恋」の意識などまったく持たないのに一緒にいたいと思うのが「初恋」なのではないかと思ったのです。そう終わって気が付いたときに「人は恋の物差しを自分の中に作れているのではないか。」と思うのです。初恋の次の恋はもう自分で相手を品定めしている自分になってしまっている。「初恋の次の朝」からはもう大人になってしまっている。ぼくはそう思うのです。
 これはきっと「初恋」だけではなく、何事も「初めての時の様々」が目盛りになって自分の物差しを作るのではないだろうかと思うのです。その自分の物差しを作るということが、自分のアイデンティティを作るということではないかと思うのです。どう初体験をしたかがどんな自分を作ったかになるのだということが、傘寿になって初めて実例をもって説明できるようになった気がします。その『ぼくのバイブル』のような本がこの「こもれびレストラン」なのです。

 

先頭へ戻る