思い出の玉手箱                          案  内   
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秘かにも誉れ掲げて夏終る

 今から約40年前、サッカーは蹴球という名前で中学校の運動部ではまさに日陰の部活動であった。野球部でレギュラーになれない子、バスケットボール部やバレーボル部を辞めてきた子の吹き溜りであった。そんな運動部の顧問に校長先生からの命令でなった。(学校の廊下で出会い頭に「きみ、来年は蹴球部のお守りだ。」と命令された。) それから3年。もう優勝2回、準優勝1回であった。
 まったくサッカーの知識がなかった。そこで、八重樫という選手が書いた本をグランドに持ち出して、それを読みながら生徒に教えた。毎日、雨が降っても嵐が吹いても校庭、校舎内で練習した。グランドは野球部に追われ、ソフトボール部に追われ、バスケットボール部やバレーボール部の外練習に譲らなければならなかった。そんな日陰のサッカー部がなぜそんないい成績を残せたか。どこの中学校も同じような条件だったからである。印旛郡内でもまだ十校に満たない数しかサッカー部はかった。それでも優勝というのは厳しい。とにかく毎日どこかで練習した。この写真の中学校では三年間のサッカー部顧問・監督を務めた。次の学校では八年間のサッカー部の顧問・監督を勤めた。合計十一年間である。優勝九回、準優勝二回であった。これはぼく自慢である。どんな自慢か?毎日、練習したぞと言う自慢である。グランドに一番先にいるのは先生のぼく、一番最後までいるのは先生であるぼくだった。ある年などは夏休みも冬休みもなかった。皆勤賞は顧問・監督のぼくだけであった。

 指導方針は「仲間を信じろ。いつ辞めてもいい。いつまた戻ってきてもいい。楽しんでサッカーをやろう。・・・絶対勝つ。」であった。技術も戦術も知らないからめちゃくちゃだったが、めちゃくちゃでもちゃんとあった。そして生徒がついてきてくれた。叱ることは一切なかった。笑いと涙の変な部活動で、落ちこぼれがいないから誰も辞めなかった。レギュラーは選手同士の話し合いで決めた。先生がサッカーを知らないからだった。
 ぼくは他の先生たちから「サッカー馬鹿」と言われた。それほどサッカーが好きになっていた。ああ、なんと懐かしい栄光の日々だっただろう。顧問・監督の最後の頃はもう三十校以上にサッカー部があった。でも勝った。それからわずかの間に日本にもプロのサッカーが出来た。うれしかった。もう中学校では花形の運動部である。だれも蹴球部とは言わない。花のサッカー部である。サッカー部の落ちこぼれが野球部やバスケットボール、バレーボール部に行く。
 
 この写真はサッカー部の顧問・監督になって最初の年の優勝記念である。中学校の運動部は県内どこでも夏の大会で終る。「千葉県中学校総合体育大会」(?)というもっとも権威のある大会で、ぼくたちは地区優勝を果たしたのである。そして、当時は高等学校なら甲子園と言う位置にある「県大会」へ出場した。この年はそこでは二回戦で敗退した。