思い出の玉手箱                                               案  内   
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蟻の街マリアのまなざし遠い夏

 
 
昭和35年8月10日(水)「朝日新聞・夕刊」に『底辺の人々と共に暮らして』~ある大学映研作品「ゼロの視点」作成ルポ~と題した記事が掲載されています。大きく紙面の三分の二を使っての記事です。そのリード部分を転載させていただきます。「国学院大学映画研究会では、七月の上旬から八月の上旬まで一ヶ月を、通称『バタヤ』とよばれる廃品回収のひとたちと一緒に暮らした。これはこの研究会で三本目の自主作品『ゼロの視点』(十六ミリ)を、この人たちを主題にして記録しようというねらいからだった。
 映研のスタッフ二十数人が足立区本木町近くの旅館に泊まり込み、撮影をすませた。その中から学生たちは何を学んだろうか。」
 この町は「蟻の町」として有名な町でした。ぼくは映画研究会のスタッフの一員(二年生)で、カメラのサード(三脚持ち、露出計り係)として参加していました。まるで合宿の活動でしたが、この映画を作るためにぼくたちスタッフ全員が一学期にアルバイトをして、そのお金を全部カンパしての映画のロケーションでした。もと郭だったと言う旅館の大部屋に二十人が全員で寝泊まりをしていました。三人の女性のスタッフだけが通いで参加していました。毎日毎日の撮影にかなりきついハードな活動でしたが、忘れられない一ヶ月でした。ぼくは夜になるとこの家の小学生の女の子に勉強を教えたり、みんなにギターを聞かせたりしていました。
  時には「バタヤさんになれ」との演出先輩の命令で、リヤカーを引いたり、ぼんやりたたずんだりの俳優にさせられました。
 あるとき映画女優の望月優子さんという方に出会ったことがありました。もう既に有名になっていた「蟻の町のマリア」という映画の中心になるカトリック教会を見に来たとか言うことでした。ちょっとした立ち話でしたが優しいまなざしの素敵な叔母さんに見えました。それでちょっと調子に乗って、ちょうど同学年の二年生全員が居たので教会の前で写したのがこの写真です。たしかお昼休みだったのですが、このあと先輩から叱られたことを覚えています。どういう理由で叱られたかは覚えていません。今になるといい記念だったなと思います。
 いろんな思い出がありますが、概してこの町のひと達はみんな優しかったことを覚えています。とくに子ども達の可愛らしさが印象に残っています。生活は貧しい人達でしたが心は決して貧しくない人達だとぼくたちはいつも話し合っていました。廃品回収の苦労や廃品の選別を教えてもらったりしていました。
 ここで学んだことは、心を寄せ合う人達はみんな温かいということでした。