思い出の玉手箱                                               案  内   
om21

              笛の音に面影揺れて夏の空

 もう遠い昔のことです。ぼくが中学校の教師をしていた頃に趣味で動画に凝っていた時がありました。その頃には課外活動に「演劇部」というサークルを作って演劇の指導をしていました。片手間に「映画」を作ることがあって演劇部の生徒に手伝ってもらっていました。その第二作目が今回紹介する「思い出の玉手箱」の一ページです。経緯は忘れましたがこのときに演じてもらった写真の少女は演劇部の部員ではありませんでした。確か、運動会の写真展を行うときに手伝ってくれていた生徒が雑談のうちに映画の主役に応じたのだったと思います。

 映画の中身は西洋のギリシャ神話の「ムーサイ」の一人、詩と笛の女神「エウテルペ」のお話と、日本の民話の「夕鶴」を重ねて、中学生の逸話を作ったぼくのオリジナルの物語です。内容は下記の詩「笛のコンクール・第二章」に書いたものです。


   笛のコンクール・第二章

学級予選ではうまく吹けた
私が文化祭の全校コンクールで
クラス代表になれたなんて嬉しい
でも、あのコンクール課題曲の
「アヴェ・マリア」が
どうして今年は消えたのだろう?

私はどうしても「アヴェ・マリア」が吹きたい
心を込めていっぱい練習してきたのに・・・
笛の巧さより気持ちの方が込められるもん
代表は友だちに譲ってもいい
けれど先生も友だちも私の気持ちをわかってくれない
頑なに固辞して
そして私は友だちを失った
うちの学校の文化祭は
出し物全てが学級対抗のコンクールだから
満票で選ばれた私が辞退するのは
やっぱりワガママなのだと言う

絵や音楽や書道や・・・
芸術は競うものではない
心を込めて表現することこそ真の芸樹ではないか
私の笛は「アヴェ・マリア」に心が入っている
好きでないコンクールの課題曲に
私は心を入れられない
そうして、突然に
私はひとりぼっちになってしまった
私は間違っていない
なのになんでだろう?

 

「その時だけの正しさは本当の正義ではない。」
「昨日があって、それに繋がった今日にあるのが
今日の正義なのだ。」
「その正義が明日に繋がってこそ
みんなの中でその 正義は歪(いびつ)ではなくなる。」

でも、
「どうして昨日と今日が繋がっているんだろう
どうして今日と明日が繋がっているんだろう
昨日は昨日だけで終わってくれればいいのに
今日の続きの明日なんて来なければいい。」
人はそんなときに旅に出たくなるのです
昨日と今日と明日を
プチンと鋏で切ってしまいたいのです

でも、でも、
「正義には温度がある。」
「冷たい正義はその時だけの都合の正義
温かい正義は昨日・今日・明日を繋いで
私の周りを歪にしない。」
昨日、私は選ばれた
今日、私はみんなが選んでくれたから頑張る
明日、コンクールで力を尽くす
そうして生まれた「結果」こそ正義の玉なのだ

芸術の本質なんて別の話なのだ


 ぼくも青かったのでしょう。こんな訳のわからない理屈を主題みたいに映画を作っていたのです。でも、生徒たちは映画を作ることには嬉しそうに協力してくれました。当時では珍しい高価なビデオカメラを担いで、あちこちと撮影に出かけました。懐かしい思い出です。ビデオカメラは、カメラとデッキが別々になっていました。双方がないと撮影できませんでした。重くて一人で持ち運ぶのは相当に疲れました。恥ずかしながら値段は当時のお金で50万円を上回っていました。ぼくの給料は十万円ぐらいでしたから、確か二年分のボーナスを貯金し、毎月幾らかの積み立てをして購入したのではないかと記憶しています。撮影の苦労の最たる場所は「ディズニー・ランド」でした。でも今は楽しかった思い出しかありません。映像を見ていると涙が出そうです。

 主役には男の子と女の子のふたりでしたが、女の子は可愛らしい美人さんでした。ギリシャ神話の勉強をするうちに外国の男性の風貌に憧れるようになり、とうとうオーストラリアの男性と結婚して、今ではオーストラリアに住んでいるそうです。びっくりです。ほんとうにあのエウテルペになってしまいました。
 今年の一月の末に何かの拍子にタンスの引き出しを開けて、一枚のDVDの録画ビデオをみつけました。懐かしさのあまりにそれを再生していてこのページを思い立ちました。もう、あの子は今年は還暦を過ぎているでしょう。どんなおばさんになったか。オーストラリアのおばさんになってベランダの揺り椅子で夏の星空を見ているでしょうか。そして、あの男の子は定年を迎えて今頃何をしているのでしょうか。
 
 不思議ですね。過去はあの時のままぼくの胸のスクリーンに再生するんですね。それが「思い出」っていうものでしょうか。