思い出の玉手箱 案 内 | |
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やわらかく 梅雨に抱かれて 迎え傘 |
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初めて自分がいただいた給料で念願の高級カメラを購入しました。昭和40年の頃でしょうか。「ミノルタSRー1」という名のカメラでした。千葉の田舎町の八街という名の町の中学校の教師になって三年目ぐらいでしたでしょうか。写真クラブを学校の中に作って十人ぐらいの生徒たちと郊外へ撮影に行きました。途中から雨が降ってきてぼくたちは古い壊れかかった大きな廃屋に雨宿りをしていました。そのときに出会った二人の小学生をスナップした写真がこの写真です。 ここは戦争中の飛行機燃料貯蔵のための飛行場の跡です。向かいの木立の向こうに飛行機の滑走路があり、2023年の現在も自動車道路になって残っています。昭和四十年ごろはまだ兵士たちの宿舎がここにあり、廃屋になって残っていました。その前にコンクリートの広い庭がありました。この写真はその庭の風景が背景になっています。 この写真のふたりはどうやら姉弟だったらしく、会話が聞こえてきました。その様子をぼくは後に詩にしました。 |
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飛行場跡は広いコンクリートの飛行場があって、そこから飛行機を滑走路まで誘導する道がありました。そして、まるで学校の建物のような兵舎がいくつもあり、それが廃墟になっていました。飛行場は広い平坦な北総台地の真ん中にあり、現在は八街市と富里市に跨っている畑の地域です。戦争後は帰還した兵隊さんたちが開墾して農地にするために提供されたのだと聞いています。ぼくが言った頃はその開墾がまだ続いているような頃に見えました。 ごく最近(平成二十年に近い頃)のことです。九州から老夫婦が八街に来たそうです。「息子が戦死したと言う千葉の八街の飛行場跡を死ぬ前に一目だけでも見ておきたいのです。」ということのようでした。市役所・古い小学校などへお話を聴きに言ったけど、だれもその場所を知らなかったので案内できなかったと聴きました。「何と言うことを!!!」とぼくは思いました。『なんで、ぼくのところへ来なかったのだ。ぜひ、ぜひ、ぜひ教えてあげたかったなあ!』と、悲しいほどに残念な思いをしたことを覚えています。九州からのおふたりはどんな思いで帰途についたのでしょうか。もし会えたならこの写真でもいい、この詩でもいい。差し上げてその場所を案内してあげたかったのになあと思いました。おふたりはもうとっくに九十歳を越えているようだったと言うのにです・・・(涙)。
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