思い出の玉手箱                                               案  内   
om22

              やわらかく 梅雨に抱かれて 迎え傘

 初めて自分がいただいた給料で念願の高級カメラを購入しました。昭和40年の頃でしょうか。「ミノルタSRー1」という名のカメラでした。千葉の田舎町の八街という名の町の中学校の教師になって三年目ぐらいでしたでしょうか。写真クラブを学校の中に作って十人ぐらいの生徒たちと郊外へ撮影に行きました。途中から雨が降ってきてぼくたちは古い壊れかかった大きな廃屋に雨宿りをしていました。そのときに出会った二人の小学生をスナップした写真がこの写真です。

 ここは戦争中の飛行機燃料貯蔵のための飛行場の跡です。向かいの木立の向こうに飛行機の滑走路があり、2023年の現在も自動車道路になって残っています。昭和四十年ごろはまだ兵士たちの宿舎がここにあり、廃屋になって残っていました。その前にコンクリートの広い庭がありました。この写真はその庭の風景が背景になっています。 この写真のふたりはどうやら姉弟だったらしく、会話が聞こえてきました。その様子をぼくは後に詩にしました。
 その頃にはまだ生存していたぼくの父は東京・渋谷の実家におりましたが、この写真が気に入ったらしく「雨情」と言う題をつけて長く部屋に飾っていてくれました。以前このサイトでもたびたび掲載したことがあります。


   雨 情

  
六月の夕暮れ
梅雨の小糠雨にみんな濡れていた
時間が濡れ
寂しさも濡れ
ぼくの心のカメラも濡れていた
 
すっかり裏ぶれた田舎町の外れの
日本軍の飛行場跡のコンクリートも濡れて
詫びしく古びた鏡になって
姉と弟二人の影を浮かべて
今日の終りを濡らしていた
 
どこからともなく
現れたふたりのお話だけが
傘をかぶっていたのだろうか
とぎれとぎれのささやきから
香る話し声がひっそりと温かい
町から帰ってくる母を迎えに
バス停にゆくらしい
 
なんだか遠くて懐かしい風情に
思わずぼくは惹き込まれていた
だれにもこんな思い出があるような
だれにも誰かを迎えに行った記憶があるような
・・・・・

 

そんな気がして
濡れた思い出を愛おしみ
濡れてしまった今日のこの六月を
戦争の面影を遺して古びた
飛行場跡のコンクリートに出来た
水溜りの鏡に映すように
心のカメラに収めたのだった
 
うらさびた日本軍の飛行場跡に
兵隊さんたちの望郷の思いが
やっぱり雨の中に
聞こえてくるようだ
その声もこんな雨の中で
傘をさしていたのだろうか

時間は風景の幕間になって
今は穏やかに寂れた田舎の町外れ
今歩いているふたりも
いつか濡れそぼった風景の中の物語になって
小雨の夕暮れにそっと
思い出のように浮かぶのだろうか


 ぼくが教師になってこの町にきた頃は、いかにも鄙びた田舎町でした。その町外れにこの飛行場跡がありました。近くには習志野の空軍の部隊が駐屯していたり、佐倉には陸軍の関東軍の部隊があったりの一帯でした。わが八街町はまさに日本軍の隠れた燃料倉庫のある町だったのです。アメリカ軍は東京大空襲の折には千葉の九十九里浜を上陸し、わが八街を飛び越えて東京の上空へ向かったのだと昔の人が話してくれました。そのときにアメリカ空軍の編隊に向かって砲撃をしたと言う高射砲の設置の丘が人工的に作られたそうで、ぼくが行った昭和三十八年にもその丘が二つ残っていました。八街の人々はその丘を
「射壇」と言っていました。それはこの写真の近くにありました。

 飛行場跡は広いコンクリートの飛行場があって、そこから飛行機を滑走路まで誘導する道がありました。そして、まるで学校の建物のような兵舎がいくつもあり、それが廃墟になっていました。飛行場は広い平坦な北総台地の真ん中にあり、現在は八街市と富里市に跨っている畑の地域です。戦争後は帰還した兵隊さんたちが開墾して農地にするために提供されたのだと聞いています。ぼくが言った頃はその開墾がまだ続いているような頃に見えました。
 ぼくは生徒たちとよくこの飛行場跡へ遊びに来ました。今(令和の時代になっても)でも、古い人たちはこの辺を「飛行場」といいます。その面影はもう全くないのですが・・・。そして、ぼくでさえもう八十歳を過ぎました。

 ごく最近(平成二十年に近い頃)のことです。九州から老夫婦が八街に来たそうです。「息子が戦死したと言う千葉の八街の飛行場跡を死ぬ前に一目だけでも見ておきたいのです。」ということのようでした。市役所・古い小学校などへお話を聴きに言ったけど、だれもその場所を知らなかったので案内できなかったと聴きました。「何と言うことを!!!」とぼくは思いました。『なんで、ぼくのところへ来なかったのだ。ぜひ、ぜひ、ぜひ教えてあげたかったなあ!』と、悲しいほどに残念な思いをしたことを覚えています。九州からのおふたりはどんな思いで帰途についたのでしょうか。もし会えたならこの写真でもいい、この詩でもいい。差し上げてその場所を案内してあげたかったのになあと思いました。おふたりはもうとっくに九十歳を越えているようだったと言うのにです・・・(涙)。