思い出の玉手箱                                                                     案  内   
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                  クシベシと コロボックルや 冬の風

 作家・宇野浩二さんの童話に「蕗の下の神様」というお話があります。このお話は北海道・アイヌの人たちの民話を元にした創作童話なのだそうです。

 こんな状況の中で宇野浩二さんが創作した童話は、こんな主題を持っていたのではないかと思われます。ぼくの勝手な読み取りなので思い違いがあるかもしれませんがだいたいこんなことではないかと思っています。
 生き物はみな今日を生きるために、食べものを獲得し、安心して居ることのできる場所(家)を用意し、身を守る衣服を得て、生業を作る知恵と道具を持つことに懸命にならなくてはなりません。もちろん人も例外ではありません。しかし、できるならばそれらを出来るだけ容易に得ることを考えるでしょう。そこに知恵を使うようになると、より多くを考える力を持った「人」は、ずるく他人よりも多く得をしようと思います。だんだんにそのズルさが嵩じてくると、いつか滅びの方への道をたどるようになるのだろうと思います。もしかしたらそれは生き物の性の一面ではないでしょうか? このお話をそんなことを示唆しているように思います。

 この写真は見ての通りの演劇の舞台の一場面です。そのことについては後述します。
    


  このお話のあらまし 

  むかし、北海道にまだ大陸から渡ってきた人々がいなかった頃、神様たちが住んでいました。この人たちを「コロボックル」と言ったのだそうです。いわゆる先住民らしいのですが、このお話の主人公は「コロボックンクル」ということですから、その先住民の中のひとりの可愛らしい少女の姿をした神様だったようです。やがて北海道に大陸から多くの人々が移り住むようになりました。それがアイヌの人たちらしいのです。コロボックルは他所から来たアイヌの人たちには姿を見られたくなかったようです。でも、コロボックルたちは心優しい人々でした・・・。
 
 いつの時代にも同じことが言えますが、より力の強い者、よりずる賢い者たちは他人より多く幸を得ようとします。移り住んだアイヌの人たちの生活ぶりにそれを見て取ったコロボックルたちは、すばしっこくアイヌの人たちの狩猟や採集の先回りをして採ってしまいました。けれど、とても優しい人たちだったので採ったものは富める者にも貧しい者にも、老若男女を問わず平等にこっそりと分け与えていたのです。それをアイヌの人たちは姿を見せないで行うコロボックルたちの所業だと考えて、「神のご加護」だと解釈していました。「コロボックル」というのはアイヌの人たちの言葉で、今のぼくたちの言葉にすると「蕗の下に住んでいる小人の神様」という意味なのだそうです。もちろんのこと、アイヌの人たちはコロボックルの姿を見た人はいませんでした。また、コロボックルたちは決してアイヌの人たちに姿を見せようとはしませんでした。なぜなら、姿を見せたら滅ぼされてしまうからです。(きっとそんなことが度々あったのではないでしょうか。)
 姿が見えないからアイヌの人たちは「神様」と思ったのでしょうし、きっとその辺を歩くときには全身が透明になる蓑を来ているに違いないと思っていたらしいのです。

 あるところにアイヌの若い怠け者のクシベシという男がいました。いつも何もしないでコロボックルの施し物で暮らしていたのです。その男がぜひコロボックルを捕まえて見てみたいと思いました。そこで、コロボックルを捕まえることに集中をして古い小屋の入り口に隠れていて、施し物を持ってくるコロボックルを待ち構えていました。その日に来たコロボックルが「コロボックンクル」という若くて可愛らしい女性だったのです。姿を透明にする蓑を来ていましたが、食べ物を置くときにふと見えた「手」を捕まえました。そして、屈強な手で捕まえると決して離しませんでした。とうとう、姿を透明にする蓑も剥ぎ取ってしまいました。
 そして、クシベシは命じました。「俺が一生食べていけるだけの食料と着物をくれたら、離してやる。」と。それを承知してコロボックンクルは返してもらいました。後に約束通りにクシベシにお米を俵に詰めて六俵と新しい着物を一着贈りました。「こんなんじゃ足りない。」と怒りましたし、何度も何度も催促しましたが、コロボックンクルは何も答えないで、次の歌を歌うだけでした。

 一、さしで測って、ハサミで切って             二、マスで測って、目方にかけて
   己が命を、切り刻む                     己が命を、俵に詰める
    エンヤラ・ヒー・エンヤラ・フー               エンヤラ・ヒー・エンヤラ・フー
    エンヤラ。エンヤラ・エンヤラヤー              エンヤラ。エンヤラ・エンヤラヤー

 「決してアイヌの人には姿を見せてはならない。」というコロボックルたちの思いを、恩を受けているにも関わらず無謀に暴力で犯したアイヌたち。そのことがあってからコロボックルたちは北海道から去って行きました。


 ぼくは中学校での課外活動ではサッカー部の顧問教師をしていました。が、不惑の年(四十歳)に若い先生にその役目を譲りました。それまでサッカー部の世話役そしてくれていた女子生徒と相談して、「演劇部」を作ろうということになりました。最初はぼくとその子とその子の友達の三人の旗揚げでした。でも生徒二人だけではさすがに「演劇」を作るのは困難でした。懸命に人集めをしてやっとその年は生徒全員で四、五人だったでしょうか。でも、次の年に新一年生に声かけをしてなんと十数人に増えました。全部女性だったので「〇〇中宝塚」だといって、はしゃぎながら演劇の勉強やら練習やらをしました。もちろんまだ学校の部活動には認めてもらえなくて、予算が0円です。ぼく(指導教師)のお小遣いでの活動になっていました。
 でも、みんなが以外に演劇が好きで笑顔で集まり、ワイワイガヤガヤと煩い喧騒の中で楽しく放課後を過ごしていました。やがて、秋の文化祭になりました。そこでの公演に割り込むことができるという約束が、一学期の六月初めにあったので全員素人のぼくたちは見よう見まねで演劇を作りました。その最初が宇野浩二さんが書いた童話の「蕗の下の神様」だったのです。いわゆる「〇〇中宝塚」の初演というわけです。この写真の場面は、アイヌの悪い怠け者のクシベシを諌めている村のアイヌの子どもたちの様子です。・・・ぼくはこの中学校には五年ほどいましたが、転勤になりました。

○ この演劇部を立ち上げたサッカー部の世話役をしていた生徒は、町の音楽教室を経営する先生になりました。もう一人の生徒はやがて「つか・こうへい演劇事務所で長い間働いていました。。」
○ ぼくたちの演劇部に所属していた女生徒のひとりは、テレビで評判になったドラマ「三年B組・金八先生」のある回の主役を演じる女優さんになりました。
○ この演劇部の旗揚げは昭和六十三年頃だったでしょうか。ぼくがいなくなってからはどうやら「部活動」として認められ予算が貰えるようになったとか。

  今年(令和五年)の夏に、あのサッカー部の世話役をしていて、ぼくと一緒に演劇部を立ち上げた生徒とスーパーで偶然出会いました。懐かしくてしばらく立ち話をしました。驚いたことにまだあの「〇〇中宝塚」が存続しているということでした。彼女はもう五十歳の半ばです。「あのね、先生。ついこないだね。町のストリートピアノ(わたしがやってるんだけどね。)の普及のお話で、中学校へ行ったんだよね。そこで、演劇部の三十何代目かの部長さんと話をしてきたんです。私が初代の部長でしょう? その子が驚いていたんですけど、私の方がもっと驚いたんですよ。懐かしかったなぁ〜。すごいよね、わたしたち!」と、目をキラキラさせながらおしゃべりをしてきました。
 そういえば、ぼくはこの中学校に二度勤めるとことになりましたが、合計すると十四年になります。その間に「写真部」「弓道部」「演劇部」の三つの部活動を立ち上げて初代の顧問教師でした。今は「弓道部」はないようです。
 こんな風に自分の生きてきた痕跡が、時間の合間、合間にふと見えるのはなんとも懐かしいものです。

 

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