シュンGの学習室                          談話室   案内

mukasi
佐賀県・吉野ヶ里遺跡  弥生式土器の時代の終わり頃の大きな集落の跡 

 今まで「古代逍遥」という表題でぼくのささやかな勉強を載せてきましたが、多くなり過ぎたので今度はひとつのお話だけに限って、交代で掲載して行くことにしました。歴史を順に辿ることを止めて(歴史の流れは矛盾することのないように気をつけながらですが・・・)、ひとつひとつのお話として完結させて行ければいいなあと思います。今回の第一回目はぼくの大好きなお話です。


   古代の「歌垣」・私見・その三    シュンG作 「歌垣ものがたり」 前編 ・ 後編

[ 前編 ]

 これは二、三年前にもこのサイトで公開したことがあるシュンGの半ば推測的な文章です。今回はそれをリメークして再度このシリーズに載せたいと思いました。なぜなら、老いを覚え初めてからのぼくのちょっとやる気になった勉強だったからです。
 ぼくは趣味で詩を書きます。日本の詩のルーツを求めてネットでの知識を中心にいろいろと調べてみました。その過程で古代の日本で行われていたという「歌垣」・「かがい」という行事に出会いました。
「男女が山や市(いち)などに集まって飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌ったりして性的解放を行なったもの。元来、農耕予祝儀礼の一環で、求婚の場の一つでもあった。のちに遊楽化してくる。」(日本国語大辞典より)・・・・・というような文言に出会いました。

 もうすこしぼくの調査の動機の訳を繰り返します。
 ぼくは自分の趣味の門から、日本の歌のルーツの道を辿ってここへ来たのでちょっとびっくりしました。特に「相聞歌」(贈答歌)は万葉集の三大テーマ(雑歌・挽歌・相聞歌)の一つです。その相聞歌の道を辿ってルーツを探りに入っていくとそこの「歌垣」の世界がありました。だから、それを知った時は「ええっ! ・・・?」という思いでした。これではぼくの心の奥の疑問が収まりませんでした。確かに「合同コンパ」とか「フリー・セックスの風習」ということが目的の行事だったようです。特にネットでは「古代のフリー・セックスの風習」というような解釈が喧伝されているようです。でも、なんでそんな行事が「風土記」などという書物に秘密ではなく堂々を記述されているのだろうか? なんで後の研究者はそんな行事に「歌垣」という名称を与えたのか。掛け合いだったら歌は即興ではなかったかと思うけれど、その頃の民衆はみんな今でいう『短歌』の基礎知識と才能があったのだろうか? とても信じられませんでした。そこで、もう少しもう少しと勉強していきました。まだ序の口の知識だけでしかありませんが、またその域にまでしか及ばないぼくの知識・頭脳の程度なのですが、心が少しだけ納得の方に傾き始めました。
 その納得の内容をお得意の「寓話」の創作として語ってみたいと思います。

創作寓話「歌垣」
 とんと昔(今から1700年ほど前)がありました。筑波嶺の麓の広い裾野と海べりに広がる草原地帯に今年も田植え、種まき、諸々の春の忙しい作業を終えて、「お疲れさま」という一段落の季節が来ました。(もっと昔にはこの一段落に村人がこぞって「ごくろうさま」の宴を催していたのではないかと勝手な想像をしていますが、そんな文献は見つかりませんでした。)
 そんな頃に利根の川べりのあるいくつかの部落の首長たちの自治会が筑波嶺の麓の草原に粗末な茅葺のちょいと広い小屋を建てました。
「とねごの(利根の川の五)巫女さま、どうぞ部落の宝の娘っ子たちをお願いいたしますだ。」
 首長たち自治会の長がまだ二十代後半だと思われる若い寡婦の巫女(とねごの巫女)に言いました。「とねごの巫女」はいくつかの部落で作る巫女の集まり「利根の巫女の会の五番目の位置にいる若いおばさん」のこのお話の固有名詞です。自治会の長はこの巫女にお願いをする前に「利根の巫女の会」の長には話をして了解を得ていました。それは、今年の春の歌垣(ここでは『かがひ』と言いましたが)に集まった娘っ子たちの指導と歌垣の統率とその他一切の仕切りを任せるということでした。

 これより数百年もの昔の縄文の人々の集落の中での「巫女」の地位は、中国や朝鮮の人々の中で伝わるシャーマン(呪術師)的で神がかったおどろおどろしい存在ではありませんでした。集落の安全を司る自治や管理・運営の長は腕力のある男性が首長を任じていたでしょうが、生活や文化の全般にわたっての知識や技能・指示や予測、そして指導、教導などなどを司るのは女性の「巫女」が集落の日々を支えていたように思われます。なにしろ縄文人の生活の中での女性の位置は『みんなのお母さん』的な尊敬の思いで仰ぎ慕われる位置にいたからです。
 人々の間で「巫女」として敬われる女性の資格の一番は、一人の夫にのみ添い遂げて寡婦になった女性だったようです。二番目は夫を持たない女性(若いむすめさんを含む)。三番目は一人の夫にだけ添っている夫婦の女性でした。特段に軽蔑されていたわけではありませんが、二人以上の男性に寵愛された女性は「巫女」にはなれませんでした。つまり子を産み育てた経験があって、一途な愛(ひとりの男性にしか心を許さない)の心を持っている女性(母)が最も慕われ尊敬されていたことを表しています。
 そんなわけでこの年の「歌垣」の利根の川べりの庵を任される巫女に「とねごの巫女」が選ばれたのです。もちろん利根の川べりにはこの「歌垣」のための庵はたくさんあったはずです。その一軒一軒の庵にそれぞれの巫女がいて、むすめさんの指導と世話役をしていたはずです。若者たち(男性たち)は、別の場所での合同の宿舎がありました。いくつものたくさんの集落の狩猟・採取の達人たちが先生になって、若人の男性に学習や技能などを実地研修させる合宿所のようなものがあちこちにあったようです。それは歌垣とは関係なく常設されていたようでした。多くは先人たちの死後を祀る大きな墓地の中心の広場の主要な場所に作られていました。なぜなら、墓地は集落の人々のコミュニティーの場でもありましたから、若人の研修合宿所にはふさわしい場所でもありました。(青森県の縄文遺跡、三内円山遺跡にもそれに似た大きな家がありました。) また、一つの集落には必ず独り以上の巫女さんがいました。そして、各集落同士には「巫女」さんたちの連合があったのではないかと思います。彼女たちにもきっと今でいう研修(勉強会)は必要だったはずだからです。もしかしたらずっと後の弥生時代の終わり頃の「日の巫女(卑弥呼)さん」は、各集落の巫女さんたちの集まりの「長」だったのかも知れません。(シュンGの勝手な推測)
 
 利根の川原でのこの「歌垣」(かがひ)は広く筑波嶺に広がるたくさんの部落の自治会による共同の公式の行事でした。目的はまだ初々しい男女の合同お見合いです。つまり結婚相手を見つけ、みんなに認められ、祝福された結婚をしてひと組の夫婦を誕生させることを主目的にしていました。
「ええっ? なんでわざわざそんなことを公式の行事にしなければ、みんなに祝福された夫婦は誕生できなかったわけ?」
 一つは、みんなに祝福されて夫婦になると、部落の中での夫婦の権利や義務がその社会の規律や決め事の中で認められるからです。そして、一人前のその部落(集団社会)の一員になれるからです。それは逆に言えばみんなからのいろいろな応援や手助けを貰えるということにもなるのです。
 もう一つは、婚姻は現在よりもはるかに医学的に大変なことを、特に女性は負うことになります。それに関連して日頃の節操や部落のしきたりや生活習慣の守らなければならない諸々が生じてきます。他の多くの生き物と違って人は子孫を残す営みに期間が決まっているわけではありません。だから、なおさら日常の生き方には自律と集団での風習や決め事が大事なこととして人の生き方に被さってきます。特に性的な面での解放の時を決めておくのは集団としては必須のことです。それが風習としての「歌垣」のような集団での営みだったと考えられると思います。他にもあるのでしょうが、この二つは大事なことだっただろうと想像できます。そんなわけで「歌垣」は大規模なものと小規模なものがいくつか催されて、一年(春・夏・秋・冬)に数度催されたようです。
 さらにもっと大切なことは、当時の集落は大きい集落でも百人か二百人程度の人口でしかありませんでしたから、その中での知り合い同士の結婚は大きな危惧があったのです。いわゆる血族結婚による障害をもった子の誕生という医学的な経験知識です。なので、日頃はまったく別の土地に住む知らないもの同士の男女の結婚が必須だと思われていただろうと言うことです。この歌垣の行事の最大の目的の一つはそこにもあったのです。すると、この行事の歌垣で出会う男女は初対面です。その上、風習や文化や言葉さえ方言のように通じにくい男女もいたはずです。そんな男女がどのようにして短い期間で結び合えるようにこの行事『歌垣』を演出していくのかはなかなかに難しいことだっただろうと推察されます。その手段に「歌舞・音曲」が利用されることは優に考えられます。そんなことを踏まえて「歌垣」の実際の有り様を想像していただきたいと思います。

 さて、物語の戻りましょう。
 草原の粗末な茅葺のちょいと広い小屋(この後は庵という。)の責任者に任命された「とねごの巫女」に、各部落のむすめ(未通女)さんたちが十人ほど預けられました。行事「歌垣」の始まりのさらに十日ほど前のことでした。庵には奥に簡易な厨房と自治会の女性たち(この行事の世話役としての働き手)の宿泊の部屋が作られていました。今日から約二十日間ほどを共同で生活をするのですから、まずは厨房での料理の手筈や役割を決めなければなりません。そして、この大きな規模の公式の歌垣には各部落からは屈強な男どもが会場の自治や管理、そして警護の仕事のために駆り出されていました。ならず者たちに荒らされるようなことがあっては大変だからです。このような男たちの警護団の宿舎も用意されていたのです。これらの人たちの仕事・役目の連絡や段取りにも日数が必要でしょう。
 次には・歌垣のしきたり・一人一人が用心しなければならない諸々のこと・困った時の連絡や応援のための十日間の共同生活の決め事などなどを「とねごの巫女」が、むすめさんに教える日が数日間設けられていました。
 やがて当日になりました。日の出のしばらくの後に筑波嶺の麓の大草原の中央の大きな広間に大きな焚き火と狼煙が上がりました。歌垣始まりの合図です。大草原のあちこちにある庵ではどの庵でもそうだったでしょうが、以下のことが行われていたと思われます。
 庵の娘さんたちは訪れるだろう若者たちのために料理を拵え、飲み物を用意して庵の中に火を焚いて待っていました。ただ、黙って待っていたわけではありません。みんなで歌を歌ってもう楽しみ始めていたのです。どんな歌を歌っていたのでしょうか。考えられるのは日常的にいつも歌っている遊び歌、仕事歌などではなかったかと思います。歌はいくつか用意されていたようです。歌っているのは庶民の娘さんたちですから、宮廷貴族たちが歌うような難しい歌ではなかったと思われます。この行事は二十日余りも続くのですから実際はたくさんのメロディが用意され、その替え歌のようなものも沢山あっただろうと思われます。そんなの歌の中には宮廷貴族の皆さんが歌うような高度なメロディもたぶんあっただろうと想像できます。後で分かったことですが、その頃にも職業的な(プロの)歌舞集団があったようです。後の平安から室町時代にも話題になる「田楽」「猿楽」「幸若舞」などの連中です。あの源の義経の側室の白拍子(静御前)などはそんな団体の花形の踊り手で、今で言う有名芸能人のような女優さんでした。その方達に一般の庶民たちは歌を教わったり、メロディを教わったりもしていただろうと思います。

 でも、最初の歌は「道歌」とでもいうのでしょうか、ごくごく簡単なわらべ歌のようなものではなかったかと思われます。調べていくうちにちょくちょく出会った歌では「はないちもんめ」が印象的でした。これはのちには娘さんを売り買いしていた「人買い」の歌だと言われています。けれどもこんな風な意味での歌垣の道歌があったのではないとかとぼくは想像しています。道歌という語はぼく(しゅんGの造語)ですが、「歌の道」「歌路」という言い方でぼくと同じ論を書いている文章がいくつかありました。意味は、実際のいわゆる交換の歌・贈答の歌・相聞の歌を導くための初めの鼻歌のようなものといえば分かるでしょう。
 例に挙げるこの歌は実際には江戸時代の初期の頃に各地で歌われ出したもののようですが、きっとずっと昔の「歌垣」の日の出だしの歌としての「道歌」(沢山のメロディを口ずさむ勢いをつける歌)もこのような歌だったのではないかと思われます。これはぼく(しゅんG)の勝手な想像ではなく、数人の研究者の方々の中にぼくと同じ考えを持っている方がたくさんいました。


「はないちもんめ」(関東地方のわらべうた)
~~~~~
 (左の列の子どもたち)              (右の列の子どもたち)?
勝って嬉しいはないちもんめ            負けて悔しいはないちもんめ
隣のおぼさんちょっと来ておくれ          鬼が怖くて行かれない
お布団かぶってちょっと来ておくれ         お布団ビリビリ行かれない
お釜を被ってちょっと来ておくれ          お釜底抜け行かれない
あの子が欲しい                  あの子じゃわからん
この子が欲しい                  この子じゃわからん
相談しよう                    そうしよう
・・・・・・・・
きーまった、決まった               きーまった、決まった
〇〇ちゃんが欲しい                △△ちゃんが欲しい
な~んで決める                  ジャンケンで決める(ひっぱりっこで決める)
・・・・・・・・
 で、次は勝った方から始める。
* この歌は江戸時代に子どもの遊び歌として出来上がったようです。だから、歌垣の頃にはなかったのですが、このような意味の歌が当時(飛鳥の時代ぐらい)にもあったのではないでしょうか。

 「しゅんGよ、なんでこの歌が歌垣の道歌だと思うんだ?」
あの子が欲しい                  あの子じゃわからん
この子が欲しい                  この子じゃわからん
 この段階ではまだまだカップルは出来ないのです。昔は「名乗ること」が相手を受け入れる気持ちを表すことだと言われていたということを聞いたことがありませんか? それで誰をもらいたいかを決めるのに・・・。
相談しよう                    そうしよう
 という相談の時があって、本当に相談してもらう子を決めます。

 また、こんな歌を思い出す方もいらっしゃるのではないかと思われます。
「あんたがた、どこさ~?」で始まる「手毬唄」です。
あんたがたどこさ                 肥後さ
肥後どこさ                    熊本さ
熊本どこさ                    せんばさ
せんば山には狸がおってさ             それを猟師が鉄砲でうってさ
煮てさ                      焼いてさ
食ってさ                     それを木の葉でちょっとかぶせ
 この歌も子どものまりつき歌ですが、歌には昔流の掛け合いの形が見えます。
 作られたのは幕末の頃(江戸・明治の時代)とされ、出処は「九州・熊本」と「埼玉・川越」の説が多いようです。でも、作者は不詳となっていますし、同じメロディの替え歌のような歌は日本全国にあるようですから、ずっと昔からこのメロディに似たものはあったのではないかと思われます。が、これはぼく(しゅんG)の勝手な想像です。ついでに言うとぼくはこの歌の出処は「埼玉・川越」案に賛成です。理由の一つ目はことば全体が関東の方言だからです。二つ目の理由は「肥後どこさ?」と問うと「熊本さ」と答えているところにあります。なぜならもし熊本でできた歌だったら「肥後どこさ?」と尋ねて「熊本さ」とは答えないと思います。だって、肥後が熊本だなんてこの地方の人なら誰もが知っているから、この地方の人ならあえて「熊本さ」とは言わないはずだと思うからです。三つ目の理由は「せんば川」は熊本にあるが、「せんば山」は川越にはあっても熊本にはないからです。あとで盛り土によって「船場山」が作られているというのはあまりにも取ってつけたような話で信用できません。よって、埼玉・川越で当時官軍の兵士として関東へ来ていた肥後の兵隊さんに、埼玉・川越の子どもたちが尋ねた形の文言だとした方が納得しやすいのです。
でも、これらの歌は実例を示して理解しやすいように・シュンGが勝手に引用したものです。決して当時の「歌垣」に歌われたものではありません。きっとこんな風な掛け合い歌が作業歌や宴会歌にはあったのではないかと推測されます。実際には古い民謡などにも合いの手としてみんなが声を合わせる掛け声のようなものがありますよね。そんなことからも掛け合い歌の存在は優に想像し得ると思います。例えば、大化の改新の時代に出来たと言われる富山県の民謡「こきりこ」の「マドノサンサハ・デデレコデン、ハレノサンサモ・デデレコデン」などという合いの手の「オノマトペ」は、まさにみんなで声を合わせて歌ったという証拠だと思います。で、江戸時代の掛け合いの子ども歌のようなものが「歌垣」の頃にも大人の歌のように歌われていたと言う想像は、嘘だとは言えないように思います。こんなことから、この歌も「歌垣」の歌にはずいぶん似つかわしい歌のように思えます。
 訪れた若者にむすめさんたちが「あんたがたどこさ?」と尋ねるのは、まさに「歌垣」らしい歌だと思えるのです。若者が「肥後さ」と答えるのも自然だと思うのです。
 さて、こんな歌を歌っているといつかその歌は草原を渡り庵周辺に広がっています。
 そこを通りかかった四、五人の若者がふと耳にして庵の扉を叩きました。早速のお相手のお出ましです。「とねごの巫女」が扉を出てその四、五人の若者を庵の中へ案内します。中では楽しそうにむすめたちが歌っていましたが、一瞬歌を止めて若者を迎えます。そして、料理や飲み物などを用意しながらいつかさっきの道歌をまた歌い始めます。すると若者たちもそれに和して歌い始めます。そこのところを「とねごの巫女」がうまく舵取りをして、むすめたちと若者たちの掛け合いの歌にしていきます。みんなで歌を歌いながら、先の歌の内容のように、知っていれば名前をそうでなければ具体的な特徴をあげて相談の結果を打ち明けあいます。その二人は引っ張り合いながらも笑いの中でみんなに認められて「臨時のカップル」になります。当然ですがこれで夫婦にカップルが決まるわけではありません。次の段階の二人になっていろいろな相談などをする権利を貰うだけのカップルということになります。
 さまざまにみんなでいろんな話をして夕暮れになると、今日の宴は終わりになります。そして臨時にできたカップルのふたりはそれぞれに、二人だけの時を過ごして相談をします。もちろんその夜に結ばれるカップルもいるでしょうし、相談の結果として次の機会を待つ、あるいは別れることになるカップルもいるでしょう。
 次の日にはまたむすめさんたちのメンバーは、庵に集まって昨日と同じように厨房で料理を作ります。それから昨日できたカップルの宴の後の様子などを「とねごの巫女」に報告がてらみんなで話し合います。午後三時頃ぐらいになると再び道歌を歌いながら二日目の宴が始まります。
 そして二日目の若者たちが庵にやってきます。昨日来た若者の中には同じ者が再び来る場合があります。そして、二日目には来ない若者もいます。また、新しい若者がいたりします。
 心にお目当のむすめがいる時は、同じ庵へ再び来るのです。昨夜の宴の後の話し合いでうまく行かなかったカップルで、もうこの庵にはお目当のいない若者は来ません。昨夜の宴の後で意気投合して一夜を一緒に過ごして抱き合った二人は約束をして次の日も同じ庵で会うことになります。そのことは午前中にもう自分たちの守護者の「とねごの巫女」と仲間たちには報告済みなので、若者が再来したことで初めてカップルは成立します。みんなに祝福を受けて二人は寄り添って宴が続きます。再来した若者が未練を残して再びお目当の娘さんにカップルを乞いました。けれど、それには答えたくない娘さんはもう午前中にそのことを巫女とみんなに報告していますから、「とねごの巫女」が上手に柔らかくお断りをします。すると若者はそれを素直に聞かなくてはなりません。そのときにトラブルなどが起きた場合は、庵の奥の自治会の屈強な警護の者がそのトラブルを治めるのです。素直にむすめさんの気持ちを理解して、別のむすめさんへ思いを告げることはできます。しかし、それもなければ三日目はもう来ないで別の庵へ行くのです。
 なにしろこの「歌垣」は、将来の伴侶を得るための行事ですから、参加する者たちはその気持ちで真剣に参加しています。そして、受け入れる時の「礼」やお断りする時の「礼」を事前に「とねごの巫女」から、はっきりと教育されているわけですからそれは守らなければなりません。これはもちろん男性の若者たちにもしっかりと教育はされています。でないといつまでもみんなに祝福される夫婦を作ることができなくなるからです。
 こうしたとことが初日・二日・三日・四日・・・と続いていくのではないかとぼくは想像してみました。しかし、その間には毎日ずっとずっと同じような宴が続き、ずっと歌を歌いっぱなしなんてとても想像できません。ときには延々と日常会話が続いたり、著名な人のお話があったり、庵ごとにはお休みの日があったりしていたのではないでしょうか。でも、もしこの庵で新しいカップルができるとその時にはみんなで歌を歌いながら、その歌で当事者はカップルを宣言するように短い掛け合いで歌ったのではないかなと思います。その歌の内容はもちろん「家とか名前を名乗ること」が含まれていたんじゃないかと思います。
 あるいはいくつかの報告を受けて「とねごの巫女」の指示で、例えば七日目には本格的な宴にして何組かのカップルをその庵の歌で披露して祝福をしたりしたのではないでしょうか。

 文献によるとそのときのカップルを宣言するように短い掛け合いでの歌はほとんど記録されていないとされています。庶民たちにはあの難しい歌(後に万葉集などに載る和歌のような歌)を作れない人が大多数だったのではないかと思います。しかし、中にはこの歌垣に参加した人の中に地方でもかなり身分・教養のある若者・むすめたちもいただろうとも思います。そんな彼らは貴族宮廷の人たちの歌のようなメロディに乗る歌を作れる者もいたのです。そんな人たちは自分たち(カップル)の相聞を歌で披露することができたのだろうと思います。この「とねごの巫女」の庵でもそんなカップルが居りました。そして、七日目の宴でちょっと恥ずかしそうにその歌をみんなに披露しました。とてもいい歌なのでみんなで感動し拍手して、その歌を合唱のように何度も何度も唱和して心に焼き付けたのではないかと思います。
 今回はその歌の例を挙げて、このお話しを一旦閉じたいと思います。
むすめさんが歌垣の夜に初めて契った若者に、次の日に衣服と供に贈った歌
 吾が背子し著せる衣し針目落ちず 入りにけらしも我が情副ふ
  ○ 読み方(あがせこし きせるころもし はりめおちず いりにけらしも わがこころそう)
  △ しゅんG訳(私の愛するあなたに着てもらおうと思って、きっちりと間違いないように丁寧に縫いましたよ。その縫い目には私の思いも情けもしっかりと込めてありますよ。)
衣服と歌をむすめさんから貰った若者が二日後ぐらいして返した歌
 独り寝に絶えにし紐をゆゆしみと 為むすべ知らに哭のみしぞ泣く
  ○ 読み方(ひとりねにたえにしひもをゆゆしみと なむすべしらにねのみしぞなく)
  △ しゅんG訳(いまはひとりで寝ていますが=あなたと抱き合ったことが思い出されて=着物の紐が自然に緩みます。どうしていいかわからないほどに心乱れて=あなたが恋しくて=だた泣くばかりです。)
 万葉集の東歌の中から「歌垣」の相聞歌としてあったものを抜き出したものと思います。宮廷貴族たちのとは違ってなんと素朴な内容だろうかと思います。それゆえ現代のぼくたちでもよくわかる心思いが伝わってきます。
 さて、「とねごの巫女」の庵でのこの続きのお話は次回に譲りたいと思います。そして、「歌垣」という行事がなんとすごい行事だったかをぼくなりに述べてゆきたいと思っています。

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