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mukasi
佐賀県・吉野ヶ里遺跡  弥生式土器の時代の終わり頃の大きな集落の跡 

 今まで「古代逍遥」という表題でぼくのささやかな勉強を載せてきましたが、多くなり過ぎたので今度はひとつのお話だけに限って、交代で掲載して行くことにしました。歴史を順に辿ることを止めて(歴史の流れは矛盾することのないように気をつけながらですが・・・)、ひとつひとつのお話として完結させて行ければいいなあと思います。今回の第一回目はぼくの大好きなお話です。


   古代の「歌垣」・私見・その三    シュンG作 「歌垣ものがたり」 前編 ・ 後編


[ 後編 ]

 さて、「歌垣」の行事の後半を述べたいと思います。その前に、もう一度この行事は「いつ」行われたか、「だれによって」行われたか、「それはなぜなのか」をはっきりさせておきます。

 「いつ」は、春の田や畑仕事が一段落した時と秋の収穫が終わった時ぐらいのようです。
 もちろんこの「歌垣」の行事は大小様々ですし、山辺や海辺の人たちの集落での差もあるでしょうし、地方によっては田畑の仕事始めやその収穫の時期も違うでしょうから、開催の時は微妙にズレてはいると思われます。しかし、例えば筑波嶺の麓の大規模な「歌垣」には遠くは遠近江(今の静岡県あたり)からの参加や、信州(今の長野県)辺りからの参加があったと言われていますから、陸奥で言えば福島・宮城・山形の当たりまで考えられるかも知れません。すると、だいたい春と秋ぐらいの頃ということになりましょうか。(この「歌垣」に似た行事は今でも中国の揚子江の上流の少数民族の中で行われているようです。その記録によると「歌垣」に参加した若者が大きな山を一つ越えて来たといいますから、日本でも集まった若者が住んでいた地方の範囲はかなり広かったと思われます。)
 「だれによって」は、この行事が当時では公的な行事だったことから考えられると思います。
 つまり、それぞれの小さな集落の長すなわち村長さん的な人や、やや広い範囲を治めていただろう今でいう郡の長、あるいは県知事級の人たちまでの合同による「協議会」のようなものの主催ではなかったかと思われます。もちろん現代の県や市町村を思い浮かべないでください。はるかにはるかに人口は少なかっただろうと想像してください。また、日本列島の原住民の縄文人の時代は一万年以上の年月を経ていますから、たくさんの経験的な知識でいうとおそらく近親に近い人々との婚姻が正常でない子の誕生を引き起こすことなどは知っていたかもしれません。だから「歌垣」に集う人たちの範囲は遠く広い地域だったのかもしれないのです。とすれば、広い範囲の集落の長が集まっての「協議会」のようなものがあったと考える方が理に叶っています。また、それはもしかしたら臨時の合同協議会があったかも知れません。
「それはなぜなのか」は、若夫婦を二人が住む集落や出身の集落などのみんなで祝福し、披露して知ってもらうために必要な行事だったからです。
1、村中、あるいは近隣の集落中の人たちに知ってもらい、夫婦になったから生じる権利と義務などをみんなが認める必要があったからです。「この村に新たに住む若夫婦が来たよ。早く知り合いになって仲良くしなくちゃね。」ということも必要です。
2、初めての夫婦生活全般への支援や教育などなどを周りの人たちが手助けするために、二人の結婚を知っておかなければならないから。
3、医学的な見地、とくに子の誕生などに注意を払い指導していく対象をそれぞれの母親だけでなく、医師的な知識を持っていただろう「巫女」たちも知っていなくてはならないから。
 
 では、物語の続きに入りましょう。筑波山麓の片隅の「とねごの巫女」さんがリーダーになった茅葺小屋での様子はどうでしょうか。
 準備万端整えての午後の始まりに、広場の中央の大きなサークル状の真ん中に「歌垣」の始まりの合図の狼煙があがりました。小屋の中ではお料理と昼食の楽しみ会のような宴が始まりました。十四、五人の若い女性たちが「道歌」の掛け合いを歌い始めました。一刻ぐらいの後に若い男の子たち三人ほどの来訪の合図がありました。「とねごの巫女さん」が小屋を出て話し三人の若者が入ってきました。そして、すぐに道歌の掛け合いの中に入りました。歌を終えしばらくの昼食と歓談の後で「とねごの巫女」さんが司会者になって自己紹介とそれに付随する様々なお話がしばらく続きます。意見や質問や途中で入ってきた若者の紹介や何やで話を弾ませて一段落してから、早い夕食に入ります。夕方なら軽いアルコールも入るでしょう。それぞれに質問やら説明やらでなんとなく興味を感じるお互いが隣同士なっています。「とねごの巫女」さんは、様子を見ながら自由時間を作ります。すると自然にいくつかのカップルがそれとなくできています。若者も娘さんも結婚相手を見つけるために参加しているのですから、何組かの軽いカップルができるのは自然です。
 さて、ここでは架空ですが寓話風に主人公のお二人、リョウくんとマヤちゃんを設定します。
 リョウくんは総の島(今の千葉県で「歌垣」が筑波山麓で行われた頃は、千葉県は大きな島国だった。)の漁師の息子でした。船でこの二十日間ほどの「歌垣」に参加していました。マヤちゃんは地元常陸の国の農家の娘でした。
 初めて会った日にはたまたま隣同士になりましたが、二人は男と女ですので二人の間で「道歌」の掛け合いが反対側になりました。歌いながらにもそのことが可笑しくてちらっと目配せで微笑みました。それだけの縁でなんとなく二人はカップルになりました。夕食の後の自由時間に二人は小屋の外へ出て、筑波嶺の上の月を見ながらもう少し詳しい自己紹介をしました。そして意気投合して「明日もお話の続きをしよう。」と約束をしました。
 次の日もリョウくんはマヤちゃんとの約束通りにこの小屋へやってきました。そして、歌ったり話したり誰かのお話をきいて勉強したりしました。もちろん二人だけでの話もしました。互いの故郷の話などはほんとうに楽しくワクワクしながらのひと時を二人で共有したと思います。
 三日目のお昼の食事の時に二人は小屋でみんなと一緒になりました。そして、昨日のように昼食後の道歌をしばらくみんなで歌ってから、「とねごの巫女」に許しをもらって二人で小屋を出て二人だけの散歩をしました。筑波嶺の麓の広い草原をしばらく歩くと海辺へ出ます。二人は浜辺を歩きながらだんだんに心を寄せていくようになりました。すっかり打ち解けて言葉にも慣れていつか手を繋いで歩くようになっていました。しかし、暗くならないうちに小屋へ帰ってくるようにと「とねごの巫女」に言われていたので、それを守って小屋へ帰りました。そのときに二人は「明日、マヤちゃんの家へ行ってお父さんとお母さんにふたりのことを報告がてら相談してきたい。」と「とねごの巫女」にいいました。「とねごの巫女」は、責任者として警護してくれているおじいさんに言って、リョウくんとマヤちゃんの申し出を許可しました。
 四日目、五日目には、リョウくんを守るために一緒に来てくれていたリョウくんのお兄さんと三人で、朝からマヤちゃんの家へ行きました。もちろん娘の結婚を前提にして「歌垣」に行かせて「とねごの巫女」に委ねていたのでマヤちゃんの両親は三人を快く家に招き入れました。そして、この日はずっとマヤちゃんの家族とリョウくんとお兄さんでいろんな話をしました。この日は二人の結婚をとりあえず認める方向でお話をしようという目出度いお話で終わりました。だが、両親とは初対面ですからまだまだ打ち解けるには日にちが必要です。次の日もリョウくんとお兄さんは招かれて訪れることを約束することになりました。
 五日目は早々に二人は小屋へ帰りました。そして、小屋での夕食とその後の宴には間に合いました。二人はその後の経緯を「とねごの巫女」に報告をしました。そして、夕の宴で「とねごの巫女」がみんなにリョウくんとマヤちゃんがたぶん結ばれることになりそうだと報告をしてみんなに祝福をもらいました。そして、たぶんですがこの夜の宴で、リョウくんとマヤちゃんの「相聞歌(贈答歌)」が、二人によって歌われたと思います。その歌は後に「常陸風土記」や「万葉集」の「東歌」に記載されるような本格的な歌(和歌)ではなく庶民の宴の掛け合いの恋歌だっただろうと思いますが、そんな歌の記述は今は残っていません。そして、たぶんですがリョウくんやマヤちゃんはどっかで聞いたことのある歌詞を互いにデートの時にでも相談して覚えてきたのではないでしょうか。もしかしたらその時の二人の歌が「問答歌(相聞歌)」として、万葉集の「東歌」に残ったかもしれません。・・・この文の最後の歌は「参考」です。
 そして、六日目、七日目と色々な相談のために三人(リョウくん、お兄さん、マヤちゃん)は、マヤちゃんの家に行って相談をしたり、その家のある集落の人に披露したり集落のお祝いをしたりしたのだろうと思います。もしかしたらその七・八日目ぐらいにマヤちゃんの家にお泊まりをして二人は結ばれたかもしれません。
 ?これはすこぶる順調なカップルの成就の例になります。おそらく様々なことが起こり、二人の婚約成立に時間がかかったり、相談継続のまま「歌垣」を終えたり、とうとう伴侶を得られなかったりした人もいただろうとは思います。

 ともかくこの二十日ほどの「歌垣」の期間のうちにまさに紆余曲折の経過を経て、結ばれることになった若者たちがこの「とねごの巫女」の小屋にはたくさんいただろうと思います。なにしろそれが目的の行事なのですから、周囲に応援してくれる人やいろいろ教えてくれる人たちもいたでしょう・・・。もしかしたらお手伝いの世話焼きおばさんなんかもいたかも知れません。
 そして行事の終了が近づいてくると、それぞれの小屋ごとに今年のまとめをするだろうと思います。
 その日は朝からの小屋で過ごした人たちの最後の宴で賑わうだろうと予測されます。「とねごの巫女」はこの小屋に参加した娘さんや最後まで通ってくれた男の子たちの今回の経過を知り、それをまとめてみなさんに披露するのだろうと思います。そして、八百万の神への感謝と報告を兼ねて、今でいう合同の結婚式を行なったのではないかと思います。ですから、このときは関係者たちもみんなで参加して儀式を厳かなものにし、宴を盛り上げるのではないでしょうか。もちろん歌を歌い料理を食べて踊ったり・・・。一人ずつの自分たちのことの披露もあるでしょうし、次回への誓いや今回で希望が成就した婚約者のお礼やらが延々と続くでしょう。その折には今回の互いの問答歌(相聞歌)の披露があったり、素敵な歌はみんなで斉唱したり、明日からの大規模な今回の「歌垣」の総発表の大宴会への「とねごの巫女」の小屋の発表などの計画を作り上げるのではないでしょうか。
 今まではこの「歌垣」の基本的な目的と意義を物語風に語ってきましたが、まだ文字文化を持たない庶民たちの邪馬台国の時代から古墳時代を経てのことはそんなに詳しい記録は残っていないようです。かろうじて記録を探すとすれば「風土記」やそれに付随するものとして、いわゆる国府の役人が京都へ持ち帰った記録など、貴族社会のレベルに残るものだけのようです。
 日本の場合ではいわゆる邪馬台国の時代から数年は、九州佐賀県の「杵島山」 大阪(摂津)の「歌垣山」そして、茨城(常陸)の「筑波山」が有名だそうです。それぞれの地域で書かれた風土記に記された大規模な「歌垣」は上記の三つの山の麓のようです。
 いろいろな研究書をみるとほとんどの研究書が「歌垣」を、古代のフリー・セックスの風習ということを中心に据えて記述しています。それは間違いないことでしょうが、それが公的に広く大々的に行事として行われていたことを考えると当時の生活文化には必須のことだったはずです。したがって、その姿勢でぼくは自分の想像を今回書き綴ってきました。が、実際にはまだ未婚で結婚を前提にしての集いに参加している者たち(この行事の主役たち)の他に、たくさんの成人たちがこの会場へ来ています。そこでの歌や踊りの宴が盛んに行われている中では、無礼講のように参加した成人たちの遊興的な楽しみもあっただろうとは容易に想像できます。飛鳥の時代に近い頃には万葉の歌人「高橋虫麻呂」夫妻もこの「歌垣」に参加して、互いに別の伴侶を見つけて楽しんだ旨が万葉集にあるとか・・・。決して綺麗ごとだけではなかっただろうことは容易に想像できます。だがそれは暗にゆるされていた風俗で、この行事の主な目的は若人たちの合同のお見合いであり婚約だったことは明らかです。
 ちなみに男女が自由にいつでも愛し合うことができた貴族社会の淫らさをイメージしてこの「歌垣」の行事を思い描くことは大きな間違いだと思います。縄文の昔から連綿として続けられた、極めて厳しく守られてきた婚姻の風習を、外来の弥生人の祖の文化に準じて思い描くことは明らかな間違いです。なぜなら、この風習はその後も連綿と続いて昭和の時代までその名残りがあるし、それはまさに隠し事ではなくきちんと皆さんに披露するべきことなのですから。(現に今でも結婚式の後に『披露宴』があるでしょう? まさにそれは「歌垣」の最後の宴と同じなのですから・・・。)
 
 この行事を「常陸国風土記」では「かがいうた」との記載があるそうです。この言い方は中国の揚子江の上流に住んでいた少数民族の中の「歌垣」とおなじような行事を、中国語で「かがいうた」と書いたのだそうです。「歌垣」は純粋に和名だそうです。ではなぜ常陸国風土記だけにこの言葉があって、他の風土記にはないのでしょうか? ある研究では九州や瀬戸内地方や摂津国辺りは人々がたくさん住んでいる地方であり、常陸地方(茨城)は全く鄙びた「ド田舎」だったので、風土記を書いた人が常陸地方を蔑んで「かがいうた」という言葉を使ったのではないかと思われます。なぜなら、この「かがいうた」という言い方は、中国では「全くの田舎者たちのつまらない歌と踊りの下品などんちゃん騒ぎ」のことを言う言葉だったらしいのです。・・・失礼な! とぼく(しゅんG)は思います。

 では日本の古代ではなぜ「歌垣」という漢字を当てたのでしょうか。この行事の呼称は「かがひ」だったのでしょうか。その辺はよくわかりません。が、「歌垣」の字を当てたことの研究はありました。この行事は現代の行事に似た性格があります。それは「成人式」「合同コンパ(集団見合い)」「そして、結婚式・披露宴」を一緒にしたものと考えてよいような気がします。たぶんに、「しゅんG」の想像ですが、いろいろな研究を探っていくと当たらずとも遠からずのことだと自負しています。
 そして「歌垣」の文字にした訳はある研究ではこう言っています。まずは楽しい歌と踊りの宴での行事にして最初から歌があり、そこでの掛け合い(当時は歌は掛け合いの言葉を基にしていた)の歌で求愛や心情の伝達をすることで楽しい雰囲気を深刻にしないようにしたことが考えられます。ぼく(しゅんG)はこんな想像をしています。当時の人々の間での娯楽はみんなで料理を食べて歌って踊っての宴が大きかっただっただろうと思います。若者や娘さんたちはそんな機会に参加していろんな歌を覚えただろうと思います。その記憶にある求愛の歌を、あの小屋での毎日の歌・踊りの中で互いに披露しあってもいただろうとも考えられます。そして、自分たち(愛が芽生えた二人の間)では宴の前に事前の打ち合わせでこれを歌おうと決めていたのではないでしょうか。この時の歌は即興で歌われただろうと研究者は言いますが、そう簡単に即興で歌なんかできません。いつかどこかで覚えた歌をこの時に歌ったのだろうと思うのです。今でもあの結婚式の披露宴で歌う「てんとう虫のサンバ」みたいにです。そして、それが昔は掛け合いの歌だっただろうと思います。そして「歌垣」の垣はぼくは茅葺の小屋のような一つのグループを一緒にする家のようなものだと思っていましたが、研究者によるとこの場合の「垣」には、見守り祝福してくれる周囲の人々の「人垣」も含まれての命名ではないかと言うのです。
 もっと洒落て言えば「みんなで歌い踊る楽しいその場の様子そのものに囲まれ包まれて、幸せな二人のカップルが祝福されること、二人を祝福してくださったみんなが二人を保証して守る垣根のようだったから・・・=歌の垣根」だから、「歌垣」なのだという風に考えることができると思います。
 つまり幸せなふたりを囲むみんなで掛け合って歌った歌の垣根が「歌垣」の語源だと言うことです。
 結婚式は終わりました。これから広くみなさんにその報告をして披露する必要があります。
 「歌垣」の最終段階の二、三日にはとても広い会場(あの「歌垣」開始の狼煙を上げた広場)で、文字通りの「歌垣」の仕上げが披露宴のように行われました。これはぼく(しゅんG)の想像だけではなく、実際には中国奥地で今も行われているこの行事(「歌垣」と同じ目的を持った行事)の披露宴の会場の写真によるものを参考に述べます。この会場は現在の小中学校の校庭ぐらいの広さの広場に大きな円形の低地を作って舞台にした円形劇場の様を呈していたようです。(ネットにはその証拠写真もありました。)数百人の観客が集まれるほどの広さだったでしょうか。 低地の中央には舞台が拵えられていて、そこでいろいろなことが演じられたのだろうと思われます。歌や踊りや演説や、演目の中心の若いカップルの披露を行なったのだろうと思われます。この頃にはもう存在していたらしい「歌や踊りの芸人集団」(ずっと後の平安の頃に出てくる白拍子さんたちの前身・・・出雲阿国さんなどの数百年前の先祖といったらいいでしょうか)も、きっと呼ばれてきていただろうと思います。あの「田楽」「猿楽」「幸若舞い」の人たち・・・。グループで歌ったり踊ったりするチーム(AKB48さんのような)プロの集団もあったのです。

 そこで「とねごの巫女」さんたちの小屋のメンバーのカップル成就も披露されたことと思います。
 例えば、あのリョウくんとマヤちゃんのふたりの紹介とこの後どこに住み、どこの部落の住人になるのかとか、結婚式の後の小屋での宴でどんな「相聞歌」が披露されたかなどを事細かに披露されます。小屋で評判になった相聞の歌などはもしかしたら、今回呼ばれた「歌や踊りの芸人集団」に歌ってもらったかも知れません。何しろ彼らはもうプロですから。そして、その歌たちに拍手が来たらきっと会場の参加者全員でその歌を歌ったかも知れません。こうして、たくさんの部屋ごとのカップルの披露・祝宴が三日三晩に渡って続いたとします。
 この披露の大宴会には広い地域のたくさんの集落の長や都からの役人たち(国守とその随行者たち)が、多く来賓として呼ばれていたはずです。なぜなら、現在のように市役所があって婚姻届を出して、それに付随する様々な手続きなどはまったくない時代なのですから、若夫婦の今後の権利と義務とそれに付随するものや、二人に応援、支援することなどを含めてそれぞれの部落の責任者がちゃんと見届けるために、ここに居るべきだからです。
 来賓の都からきていた国守さんたちはこの様子をきっと「風土記」に記載して、都の朝廷へ提出することになっただろうと思われます。都の役人さんたちはこの「風土記」を読んで、歌人の大伴家持さんのような人が、そこに報告されている相聞歌に感動して自分たちの宮廷宴などで歌い評判を得たら、その歌を「万葉集」などに記述したと思われます。「常陸国風土記」の中の歌は「万葉集」の中では「東歌」として纏められています。
 もちろん「歌垣」以外の歌も入っていますが、やはり「恋や愛の歌」は地域が違っても人としては普遍の関心事ですから良いものは都でも流行しただろうと思われます。
 うまい具合に万葉集の巻きの十四「東歌」から、リョウくんとマヤちゃんの二人に似合う歌をみつけました。かなりぼく(しゅんG)の勝手な意訳ですが載せてみました。リョウくんとマヤちゃんは、まるっきりぼくの作り話の主人公ですが、もし彼らに歌の素養があったとしたら、またこの歌をどこかで学んで知っていて、あの結婚が決まったデートのときに歌おうと二人で決めていたかもしれません。この歌は「東歌の相聞歌」として万葉集に載っています。
 なんと可愛らしい相聞歌だろうと思います。
妹が門いや遠ぞきぬ筑波山隠れぬ程に袖ば振りてな(万葉集・東歌:相聞歌)  リョウくん
 読み= いもがかど いやとおぞきぬ つくばやま かくれぬほどに そでばふりてな 
 意訳= あなたの家がだんだん遠のいていきますので筑波山に(あなたの家が)隠れないうちに袖を振りましょう。(「袖を振る」=恋しい人の心を呼び寄せると言う意味があった。)

筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか鳴き渡りなむ逢ふとは無しに(万葉集・東歌:相聞歌) マヤちゃん
 読み= つくばねに かかなくわしの おとのみをか なきわたりなむ あふとはなしに
 意訳= 筑波山にがあがあと鳴いている鷲の声だけのようにでしょうか、会えなくなるので(私は)ただずっと鳴くだけですごすのでしょう。(「かか鳴く」=「かか」は擬音語だそうです。)

 明日は会えるのにね。ま、歌っていうのはこんな風なのでしょうね。今も昔も・・・。
 でも、こんな素敵な相聞歌が万葉集に載って、令和の時代までも残ってきたのです。なんか素敵なロマンがあるように思えます。くれぐれも言っておきたいことがありますが、このような「歌垣」の風習は健全な民族の行事だったと言うことです。例えば現代における言い方での「古代のみだらなフリー・セックス風習」というのとは全く違います。 例えば邪馬台国の女王・卑弥呼さんがおどろおどろしい呪術師としての魔女のように解釈するのは全く間違っていて、むしろ集落ではみんなから尊敬を集めた立派な心の持ち主で慕われていた女性だろうと推測する方が当を得ていると思うのと同じです。 「成人式・合同のお見合い・結婚式・披露宴」の公的な行事だったと解釈できる「歌垣」に、なんとも下品な印象の表現はふさわしくないと考えます。

 まだまだ「歌垣」については語りたいことがありますが、今回の「歌垣」のぼく(しゅんG)の駄弁はこの辺で一応の終わりにします。 

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