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    随 想      書 斎     案 内


  ぼくの心に水面があるなら

 そこに映って微かにさざなみをたてたことを

 消えないうちに「文章」」にしておこう。

     時が移り、そのさざなみが消えてしまっても

     心の奥にもうそれは印刷されているように〜。


  みちしるべ     波の絵    あだ名 


           あだ名(渾名)

 

 きっと誰もが自分に付けられた「あだ名」を覚えていると思います。それは本人には全く思いもつかないエピソードを内に秘めていることもあるのではないでしょうか。ぼくにはそうでした。自分に付いたあだ名のそんな思い出をひとつひとつ思い出してみたいと思います。

 小学五年生の時でした。友のある男の子がどこからか教室に帰ってきてぼくに言いました。
「野村、職員室でお前を呼んじょっけん、はや行かんか。」
「だいがぁ?」
「行きゃあ分かっけん、早や行けな?」
 ぼくは先生に呼ばれているとばかり思いながらひとり廊下を走って職員室に行きました。でも、職員室には誰もいませんでした。先生たちも誰一人いなくて、大きな火鉢にヤカンが湯気を立てて仕切りに沸いているようでした。不思議に思いながら教室に帰ってくると、十人ほどの男の子も女の子も笑ってぼくを迎えてくれました。
「先生、おらんが・・・? だいもおらんけんな。よんだのだいじゃったかの?」
 ぼくは友の男の子に聞きました。
「おまいを呼んじょったがは、火鉢のヤカンだが・・・。シュン・シュンてて言っちょっただらぁ?」
 そうしてみんなで大笑いをしているのです。
 その日から、ぼくはクラスのみんなから「ヤカン」と呼ばれるようになりました。ぼくの名前は「のむらしゅん」だからです。担任のおばさん先生までぼくを「ヤカンちゃん」と呼ぶようになりました。しかたなくぼくはそのあだ名に応えるようになっていました。島根県の隠岐島の小学校でのことでした。

 中学一年生は東京都渋谷区広尾の「広尾中学校」でした。最初にできた友がずっと一年間いつも一緒の仲良し友達でした。見事に顔が逆三角形の形をしていました。彼は小学校時代からずっと「おむすび」というあだ名で呼ばれていたようです。その友達とトイレへ行くのも一緒という親友でしたから、ぼくたちはいつも二人で行動していました。そこでぼくにもあだ名ができました。「うめぼし」というのです。その理由はいつも「おにぎり」と一緒にいるからだというのです。なんという情けない理由のあだ名でしょうか。ぼくに何かの特徴があったわけではなく、友達が「おむすび」だから、一緒にいたという理由で「うめぼし」なのです。このあだ名で呼ばれたのは数人の仲間内だけでしたが、それでもなんとなく中学校を卒業するまで数人の友人には「うめぼし」と呼ばれていました。

 高校時代にはなぜかあだ名はありませんでした。

 大学生になって映画研究会というサークルに所属していましたが、ぼくが一年生の時に自主映画をこのサークルで作りました。当時はまだ戦後の混乱と貧しい生活をしている人々の地域がありました。その一地域を取材にしたドキュメントの映画を作りました。当時の学生映画祭で批評家特別賞をいただいて、新宿の映画館で一週間上映されたり、テレビの民間放送で全編を放送していただいたりでちょっと有名になり、朝日新聞の取材を受けて地域の文化欄の全面に特集を掲載されたりしていました。その映画のワン・シーンにゴミ箱を漁る貧しい若者の役をぼくが演じることになりました。顔を汚し、ぼろの服を纏って壊れかけたリヤカーを引いて歩いている姿が妙に似合って名演技だと先輩たちに言われました。その時の汚れたぼくの顔を見てある先輩がいいました。「野村、お前の顔は四角くて汚いからまるで便所の下駄みたいだ。」と。それを聞いていた仲間たちがみんなで拍手をして笑っていました。その日からサークルではぼくのことを「便下駄」と呼ぶようになったのです。ぼくは返事をしませんでしたが、みんなはあからさまにぼくを呼ぶときや話題にするときは「おい、便下駄!」と言っていました。半年もするとぼくは慣れてきてそれに反応するようになっていたように思います。このあだ名は一番長く、はっきりと使われていました。このあだ名には、そう呼ばれるようになった時には、「汚い顔の四角い奴」という意味がこめられていました。でも、その後ぼくはもう普通の学生に戻っていましたが、意味は薄れて名前だけが残っていて後輩からは「便下駄さん」と呼ばれていた記憶がうっすりとあります。

 千葉の田舎町の中学校へ教師として就職しました。東京・山手育ちのぼくの「ざあますことば」のボンボン・バージョンはこの学校ではまったく通用しませんでした。だから、生徒への指導はほとんど不能でした。その所為かぼくは先生方からは「教師失格のダメ先生。」と評価されていました。けれども、その反対にぼく自身もこの町の文化には馴染めませんでした。
 赴任して最初の職員会議の時間にすっかり眠ってしまいました。職員室の向かいに座っていた体育の先生が何度の注意をしたそうですが起きなかったようです。それどころか大きなイビキをかいて熟睡してしまったようです。学年主任の先生が席を立ってきてぼくを揺すって起こしました。目が覚めて呆気に取られているぼくを見て、職員室中が軽蔑の笑いに満ちていました。で、先生たちがぼくに付けたあだ名が「居眠り狂四郎」でした。よく考えると「居眠り教師」だったと思います。が、ちょうどその頃流行していた映画の「眠狂四郎・円月殺法」になぞらえて、「居眠り教師」に「郎」の字を付けたのだということがわかりました。それ以来、軽蔑の意味を込めて先生たちはぼくを「教師郎」というようになりました。これは九年間も続いたぼくの職員室でのあだ名でした。なお生徒の間では「うんこ先生」でしたが、その訳はまた次の機会にお話しします。(ただし、四十年後には「うんこ先生」の話で、市役所が一日仕事にならなかったという事件があって、今でもぼくが住んでいる町で、ぼくは「うんこ先生」という名で有名なんだそうです。しかし、そんな噂が四十年も脈々とぼくの町に続いていたなんて、ぼくにとってはほとんど知らないことだったのです。

 次に転任した学校でのあだ名は「パパ」でした。これは生徒たちがつけていたあだ名でした。
 どこにいても(JR四街道駅前の広場でさえ、大きな声で)ぼくを生徒たちは笑顔で大声を出してそう呼んでいました。ぼくはそれにはきちんと前向きに対応していました。駅前の大通りで三人の保護者のお母さんたちに出会いました。
「先生は、教頭先生なのに生徒に慕われているんですね。ほんとうに子どもたちを可愛がってくれてありがとうございます。」
 三人のお母さんがそう言ってぼくに礼を尽くしていました。ぼくはこの時ほどこそばゆい思いをしたことはありません。なぜなら、このあだ名にはぼくを軽蔑し揶揄している意味が含まれているのを、おかんさんたちが知らなかったことだったからです。ぼくはいつもトボけて生徒たちを笑わせていました。生徒たちは半ば呆れて、馬鹿にして、ぼくをあの『天才バカボン』という漫画に出てくる「バカボンのパパ」というあだ名をつけていました。そのあだ名が長いのでいつの間にか「・・・パパ」と呼ぶようになっていたのです。ですから、JR四街道駅前の広場で生徒たちは心では「バカボンのパパ」と呼んでいたのです。それをお母さんたちは知らないので、ただの「パパ」と呼ばれて生徒たちに慕われていると勘違いをしていたのです。なんとそのときのぼくの気持ちをお分かりいただけますか。背中がむず痒い思いでした。しかし、この「パパ」というあだ名は生徒たちに広がり、しばらくその学校では続いていました。ぼくもいつかはそれに応じて返事をするようになっていたのです。

 いくつか学校を転勤しましたから、ぼくの体型を揶揄して「まち針」「マッチ棒」と言われていたことも多かったように思います。頭が大きくて足が短く細いという体型をあだ名にしていたのです。

 しかし、不思議なもので「あだ名」があるということそのものは、むしろ嬉しいことなのかも知れません。それだけ周囲の人に関心を持って貰っていることだし、そこには僅かに親愛の情が込められていると感じることもあるからです。ぼくを「バカボンのパパ」から、「パパ」と呼ぶようにしたのは実はその学校の不良グループの生徒たちでした。そういえばぼくはどの学校でも問題生徒たちとはなんとなく仲良くしていて知り合いでした。でも、どんなに世間話はしても説教をしたことはありませんでした。さまざまなことに思いを至らせていると、どの子にも安易にお説教など出来る状況ではないことが分かるからです。例えば、ある男の子は一人で倉庫や物置小屋に閉じこもってビニールの袋を被りながら、シンナーに耽っていました。よく先生たちに見つかってずいぶん叱られてとうとう中学校を辞めさせられてどこかの施設へ送られてしまいました。ぼくはその子とふたりで一時間ほど学校の保健室にいたことがありました。「シンナーやってるときだけ、お母さんに会えるんだよね。」と言って涙を拭いていたことがありました。ぼくはそれを聞いてぼく自身が泣いていました。先輩教師たちから「ちゃんと指導しろ!」と言われましたが、ぼくには何も言えませんでした。そんな子どもたちから貰った「あだ名」の『パパ』は、もしかしたら誇りに思っていもいいあだ名だったのかもしれません。

 ふっと、そんなことを思い出した夜でした。



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