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随 想     書 斎     案 内


  ぼくの心に水面があるなら

 そこに映って微かにさざなみをたてたことを

 消えないうちに「文章」」にしておこう。

     時が移り、そのさざなみが消えてしまっても

     心の奥にもうそれは印刷されているように〜。


  みちしるべ     波の絵    あだ名      

sra


                 思い出への道

  
  歳をとると、ひとりぼっちのさみしい時にはなおさらですが、思い出がさまざまに浮かぶものです。そんな思い出の中に詩の種を見つけて拙い筆で詩を書いてきました。教師になった頃に受け持った可愛らしい中学一年生の女の子にギターを聞かせたことがありました。その子が四十歳を過ぎて同窓会で、三十年ぶりに出会った時のことを詩に書きましたが、それはこのサイトの「思い出五七五」の欄に懐かしさと一緒に載せました。  そのほかにも幼い頃のことを「詩の種」にしている作品は山ほどあります。いつかある作品の中にこんな文言を書いたことがありました。『思い出が宝物になってくると、人は涙もろくなるようです。』と。

 ところが、八十歳を過ぎるともう頭に思い浮かぶことの大半は「思い出」です。そして、思い浮かぶことは詩の種になるようなことばかりではありません。暗い話や悔しかった話や悲しかったことなど・・・。そう、ぼくの人生には楽しかったことの数十倍もの「マイナス感情」の時があったように思います。中には恨みを伴う「悪口」そのものの思い出もわんさとあります。若い頃にぼくをいじめ抜いた先輩が、傘寿を過ぎて久しぶりに出会った時、ぼくにまとわり付くようにして『ごめんな、ごめんな。』を繰り替えしていたことがありました。その言葉にぼくはいじめられていた時を思い出して、不快になってそばを離れながら思いました。『死んでも許すもんか!』と。そんな思い出もあります。そして、今ではそんな嫌な思い出も含めて、それが人生だったのだと思えるようになりました。

 もちろん悪口になる思い出話はこのコーナーには不似合いですが、辛かったことや詩の種にはならないことなどをつぶやきのように綴ってみたいと思い始めました。よい思い出を題材にしての文章や詩を書いて「思い出が宝物になる」なんて言っているようでは、ほんとうの人生の味わい・風味を出せないのではないかという思いからの『随想』をしばらく綴ってみたくなったのです。詩あり愚痴あり、怒りや後悔や自分の馬鹿さ加減などを散りばめて、詩だけではなく物語だけでもなく、勝手な随想風のコーナーをちょっとばかり店開きさせていただこうと思いました。 シュンGの一面がここに映るかも知れません。

 後ろ姿の人物は老いたぼくの過去への旅姿にしました。向こうに見える山はぼくの故郷の山で「蓮華寺山」といいます。島根県・隠岐の島の道後と言われている島で、ずっとの昔(室町時代の頃)からの言い伝えでは、この山の麓は家が五十数軒の集落だったようです。その集落を治めていた代官さまの家は今でも「代官家(よこや)」という名で残っているようですが、ぼくはその家の血筋の一端を引いているようです。そして、嘘のような言い伝えが「代官家(よこや)」にはありました。正面の「蓮華寺山」を越えると外海の海岸で、「立木の浜」があります。室町時代のことですがある夜更けにこの海岸に船が流れ着きました。なんとその船に乗っていたのは隠岐へ島流しになった後醍醐天皇だったのです。一行は上陸すると近くの村へ山を越えてたどり着きます。その村の長の家「代官家(よこや)」に一夜を過ごします。が、言い伝えでは数日この家で過ごしたようです。のちに現在の西郷町の方へ移り住んだというお話が「代官家(よこや)」に伝わっているのです。少年時代にこの部落で過ごしていた十歳前後のぼくにはそんな話はまったく染み込んできませんでしたが、老いて振り返るとなんかすごいことのように思えるのです。いかがですか? とは言っても名のある人とすれ違ったぐらいのことですが、やっぱりびっくりのことですよね。・・・ちなみにぼくは散歩中の老人(76際ぐらいの)と出会った細道で「こんにちわ。」とぼく(二十歳ぐらい)の方から声をかけました。「あ、どうも」と挨拶を返してもらいましたが、この老人はあの著名な小説家「志賀直哉」さんだったのです。 すごいでしょう。ぼくは後醍醐天皇と志賀直哉さんに思い出のかすり傷ぐらいの縁があるんじゃないかと・・・、なんて思いたいのですが・・・。 
 ま、こんなエピソードもこのコーナーにふさわしいお話だと思うのです。こんなことをここで遊んでみようかなと思います。

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