詩の小舎                               書斎      案内

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 この写真は三枚の写真の合成です。イメージはイギリス旅行の折のロンドン市内の観光バスのガイドさんです。

 絵の右下のモノクロームの写真がこの詩に描いた本物の写真です。実際にあったことを詩にしたという証拠の写真なのです。カラー写真のガイドさんはぼくが写したずっと昔の女性の写真に、CGとして描いた顔を貼り付けて架空の人を作りました。でも、実際のときとイメージはぴったりなのです。ガイドさんはバスの中ではサングラスを外していらっしゃいました。お仕事だからということなのでしょう。ほんとうに手の指の動きが印象に残っています。なんだか寂しく温かい思い出として大事にぼくの心に残っています。ぼくは四十歳ぐらいでしたでしょうか。

目 次   マッチの光  思い出ワイン  少年  交響詩「李花さん」     交響詩「天の川」  ハクサン・フウロ 

       オカリナの思い出   線香花火


     


      ロンドンで日本人観光客のためのバス
      のガイドをしていた女性に・・・

 


十三年、彼女は青春を
異国での独り暮らしに費やしたという
めぐり渡る歳月が
凍み通っている背中に・・・
彼女は寒そうだった

異国の古典劇場の殿堂の前の小さな丘で
かつては誇らしく操ったこの国のことばを
今は一日の糧を得るために操り
豊かだった情感をひとつひとつ削って
もう実り切ってしまった胸に
小さな記憶を紡いでいるのだという

彼女は残り火をそっと吹くように
今日の生業に燃えていた
呪文のようにしか思い出さない祖国のことばを
久しぶりの祖国の人達のために
思い出し思い出し語っている
再会した親友にあれからの消息を語るように
初めての恋人に身の上を語るように
そして、頑張っていることを
父に褒めてもらいたいかのように語る
この異国の殿堂の由来を語る
やがてやってきたこの国の観光案内人を紹介して
彼の誇らしげな威厳に満ちた異国のことばを
祖国のことばに直して語る
そっと伸ばす細い指の向うに
異国の歴史が黒くどっしりと構えている

わたしは彼女の指先を見ていた
それは透き通るように痩せていた
うっすりと汚れた白い手袋を脱いで
揃えて伸ばした指先はこころなしか疲れて見えた
もう稚拙になりかかった祖国のことばと
慣れたしまった仕草が悲しく
わたしは異国が誇る文化の重さよりも
その指先になぜか心が引かれた

乞うてわたしは彼女と記念写真を撮った
寄り添う肩にわずかに温もりがある
安らぎを覚えながら
わたしはこの長い旅の中で
しばし「人」に戻っていた
物語ほど惨めではないけれど
心の隙間にふるさとが見えるという
帰りたい、お金があったら・・・、という
彼女の背中の冷たさが伝わってきて
そのぶん肩の温もりがいとおしい

わたしは染みてくるような寂しさを紛らすために
少しおどけて「サンキュー」とこの国のことばを使った
彼女はわたしの発音を直す先生のように
笑って「サンキュー」という
玉砂利を踏んで私たちはバスへ戻った
彼女は仕事に戻る一瞬に
「ありがとう」と祖国のことばを使った
わたしも彼女の発音を直してやった
彼女はもう一度、祖国を味わうように
わたしの言い方を真似た
そして、嬉しそうに笑って
静かに悲しそうに仕事へ戻っていった

バスの中で
彼女の指は右に左にわたしたちの目を誘った
わたしは終日
その指先を見つめていた
その夜、ホテルの晩餐の後のひととき
仲間とひとしきり今日を語り合った
わたしの記憶はすべておぼろであった
彼女の指先が記憶の前面を
ひらひらと舞っているのだ

ひらひら、ひらひらと舞っているのだ



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